みなさん、こんにちは。
数学という学問は数式や図形を扱うことが基本中の基本となる学問である。
数式を扱うものが解析学(Analytics)と呼ばれ、図形を扱うものが幾何学(Geometry)と呼ばれる。だから、図形を数式で扱い場合が解析幾何学(Analytic Geometry)と呼ばれる。いずれも黒板に数式を書いたり、図形を描いたりして研究するものだ。
理論物理学者はこの数学解析をフルに使って研究する物理の学問である。たとえば、有名なリチャード・ファインマンはこんな黒板を書いていた。
ところが、そんな数学の世界に「盲目の数学者」がいたのである。その名は
「盲目のピアニスト」といえば、我が国の辻井伸行さんが有名である。彼は生まれつきの盲目であった。彼の聡明な母親が、生まれてすぐに彼の音声に対する敏感さにすぐに気づき、それを伸ばす教育を行った。その結果、いまでは「世界の辻井」となった。
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鍵盤の姿形や位置を見ないでどうやって演奏できるのか?
それも実に不思議なことだ。
それと同様に、現代数学それも抽象数学をどうやって頭の中だけで理解することができるのか?
これまた実に不思議なことだが、ポントリャーギンはそれを見事にやってみせたという人だった。
ポントリャーギンは辻井さんのような生まれつきの盲目ではなかったのだが、それでも目が見えずに現代数学で天才のほまれ高い業績を上げるというのは信じられない思いがする。
俺なんぞいくら黒板やホワイトボードに書こうがなかなか研究ははかどらない。
ましてやポントリャーギンの教科書を勉強している時には、その数式の複雑さやそれを図にした場合の複雑さからすれば、およそ目が見えないということが信じられないほどの込み入った図形を用いて初めて理解可能というような代物だった。
にもかかわらず、ポントリャーギンは我々より何倍も先へ進んでいた。
ポントリャーギン先生は、本を自分の目では読めない。だから、最初は母親が代読した。その後、同僚やお弟子たちが読んだという話である。そういう意味では、盲目のマラソンランナーと同様に、いつも横に若干の介助者が必要だった。
そんなポントリャーギンの教科書は我が国でもいくつか出版されている。一応メモしておこう。以下のものである。
非線形解析および場の量子論のボゴリューボフ
もそうだったが、若い現役の頃は専門書をばんばん書いたが、晩年になると、若者や子どもたちのための数学教育課程を書くということである。
ポントリャーギンもそうだった。学生のための数学教程をたくさん書き残していった。そして、その中で抽象と具体の架け橋を行う。
抽象数学を抽象的な数学のまま理解するのではなく、具体的なモデルで自分自身が内容をよく把握できる形で理解するということの重要性をとにかくロシアの数学者は重要視するのである。そして、それを若者に執拗なまでに期待する。
だから、ポントリャーギンの数学の専門書の中にも、いくつか非常に具体的な物理の問題が数学を理解するための補助として取り上げられている。
これがロシア人がオリジナリティをいつまでも保つロシア数学独特のものと考えられる。
さて、私自身はそんなポントリャーギン先生の「常微分方程式」
を最近やっと最後まで勉強することができた。むろん、中古をアマゾンでだいぶ前に買っていたものだったが、それを蔵本由紀先生の「同期理論」との関連の中で読み進んでいったのである。
京都の蔵本学派(および森肇学派)とロシアのポントリャーギン学派の違いがどこにあるか見るためである。
多くは共通しているが、予想通りところどころに差があった。
同じテーマ、同じ問題を考える場合でも、日本人とロシア人とでは扱い方や雰囲気や重点の起き方が違う。つまり、音楽で言うなら、テーマに対する解釈が異なるのである。
本来なら大学の学部時代に勉強しておくべきものだったはずだが、当時これを読めという先生からの勧めもなかったし、読んだところですぐに理解できる代物でもなかった。だから、きっと本は買ってどこかに置いていたのかもしれない。還暦過ぎてだいぶ経っての今になり、この本の面白さや重要性が理解で来たわけだ。
ところで、もう一つの「最適課程の数学理論」の方はこれより先に私は読んでいる。これまた難しい理論だが、本当にこういう込み入った数学問題を盲目で行うという離れ業には感心するばかりである。この理論は理論物理学において私はもっとも重要な理論だとみなすものである。
ちなみに、この「最適課程の数学理論」の最終部分がコルモゴロフの確率理論を最適制御に使おうというものである。この理論を確率的最適制御理論にしたのが、W. H. Flemingという数学者であった。エドワード・ネルソンは量子力学の確率量子化の手法を編み出し、ネルソン理論をフレミングの理論で調和させたのが、我が国の保江邦夫博士であった。
私は、1人の理論学者の「(オリジナルの)専門書」というのは、クラッシック音楽家でいえば、1編の「交響曲」のようなものだと考えている。つまり、新しい分野の専門書1冊は科学者の交響曲なのである。だから、同じテーもでも著者により扱い方が違うのは当然だし、人生においてそうたくさんの専門書を書くことはできない。
我が国にもそういう一流の数学者は多い。ぜひ頑張ってもらいたい。