みなさん、こんにちは。
さて、すでに我が国はプリグリズム・コンスピラシーの暴露した300人委員会の予測プログラミング通りのスケジュールで動いていると言えるだろう。
最近は特に目新しいことはなく、ここにメモすべきこともあまりない。だから、キャンディーズの話くらいしか最近はメモするものがないですナ。
キャンディーズに関してはまた後に別にメモするとして、最近(というよりずっとだが)気になっているのは、パスツールの言葉である。生前、ルイ・パスツール
が生命の研究をしている時に言ったという言葉にこんなものがある。
「生命は生命からしか生まれない」
私は生命の物理学的基礎を研究し始めてすでに予定の10年を過ぎてしまったのだが、その間にこの言葉を知った。
これは、こういうふうに言い直すこともできる。
「自己複製するシステムはその要素がすべて自己複製できるシステムでできているものでしか成り立たない」
どういうわけか、このアイデアに取り憑かれてしまったわけである。
いったいパスツールはどういう意味で言ったのか?
このパスツールのアイデアは、ただちに我々物理学者の考え方に挑戦する。言い換えれば、物理学者の考え方に対立する。
なぜなら、物理学者は、
「生命は(生命ではない)物質から出来ている」
と考えるからだ。物質そのものは生命ではないと考えるわけだ。
あるいは、
「生命は原子分子でできている」
と科学者なら認めるだろう。
この原子分子は生命ではない。なぜなら生命のような自己複製はしない。
だから、一般に我々物理学者が生命を考える場合には、生命の構成物質は非生命であると仮定するわけである。
パスツールのアイデアはそれに真っ向から反対するわけだ。
これに俺はずっと悩んできていたというわけだ。いまだに答えは出ない。
しかし、私はどちらかというと、パスツールに賛成なのだ。
状況証拠1
会社や社会組織を生き物に例えることができる。
しかし、その場合の会社の構成物は、会社のハードを作る非生命だけではなりたたない。会社内には人間が必要だ。
その人間は生命である。
だから、会社を生命体と考える場合は、会社の構成物は明らかに非生命+生命ということになる。会社は、建物やテーブルやイスなどの非生命の物質の他にそれを利用して仕事する生命体である人が必要になる。
単純に言えば、生命は非生命と生命でできていると定義すれば、会社は「生命は生命から生まれる」の定義を満たすことになる。
状況証拠2
会社の構成要素である人は生命である。その人自身も非生命と生命の集合体でできている。
つまり、人は細胞とその細胞が生み出す非生命で出来ている。
だから、人もまた、「生命は生命でできている」の例に入る。
状況証拠3
その人の構成要素である細胞もまた、自己複製する要素、タンパク質やDNAやRNAなどでできている。
したがって、この場合のタンパク質やDNAやRNAは生きているといえる。
それゆえ、細胞もまた、「生命は生命でできている」という例に入るだろう。
では、その中のDNAやRNAや水やイオンはどうか?
普通の考え方では、これらは単なる物質に過ぎない。
DNAは細胞外では単なる非生命の物質である。しかし、細胞内に入れば、生きている状態になり、細胞内で活動できる。
ならば、物質DNAやRNAは一方では死んでいて、他方では生きている。そういうことが可能ということになる。
では、水はどうか?
水は自己複製しないのか?
この場合は、自己複製の定義の問題になる。細胞のような自己複製、つまり、フォン・ノイマンが考えたような意味の自己複製だけを自己複製と考えれば、水は自己複製しない非生命の物質にすぎないと言える。
しかしながら、もし地球大気の循環の中で、氷、水、水蒸気の物質の3態の中で広く見れば、水は自己複製=保存しているという意味では、自己複製していると考えることもできる。
自己複製の仕方がちょっとことなるだけだ。
自己複製が生命体の定義だとすれば、水は自己複製するから、水は生命だと考えることもできるかも知れない。
そうすると、水やタンパク質やDNAやRNAもまた一種の生命体と考えることができる。
すると、パスツールが言ったように、「生命は生命からしか生まれない」が真実だと考えることができる。
そこで、もし、さらに原始までこの考え方を拡張し、最初の生命が生まれた場合を考えると、生命は生命からしか生まれないというわけだから、この地球そのものが生命であったと考えるべきかも知れないとなるわけだ。
つまり、生命の定義の自己複製するという、その自己複製の定義はあまりに限定的か曖昧なもので、我々のまだうまく理解しない定義がありえるかも知れないと思うわけだ。
たとえば、仮に物質の原子論を真似して、情報の原子論のようなものを想定する。情報は非物質であるが、それを現実世界に表現する場合に、物質の力を借りる。情報は物質や電流や光や波動の上に表現される。
しかし、その情報にも素情報のようなものがあると考え、その素情報の構成により、より高度の情報ができると考える。
情報のアルファベットのようなものがあって、それによって高次の情報が生まれる。原子同士が結合して分子やタンパク質のようなものができるというようなことが情報にもあると考える。
それを数式表現すれば、ビットとか、p進数とかそういうものになる。
しかし、数や式や物質に表現するまでもなく、この宇宙に情報の素のようなものがあると考える。我々には見えない世界である。
たとえば、いま「生命は生命からしか生まれない」と文字で表現した内容が、この世界のどこかに素情報として存在すると考える。
つまり、何を言いたいかというと、生命=非物質+物質+エネルギーと定義したいわけだ。
非物質=情報かどうかはわからないが、非物質=魂。あるいは、非物質=情意でも良い。
なぜそういう物が必要か?
といえば、もし生命が物質とエネルギーだけでできているとするならば、それは散逸と崩壊と退化しかありえない。エントロピー増大の法則に逆らえない。
散逸構造という形で、ある種の構造を取れる場合はあるが、それはあくまで風呂の栓を抜いた場合の構造でしかない。生命における創造や生産の場合ではない。
生命が生命であるにはなにか非物質の存在が必要で、その非物質と物質の間の相互変換がないと、うまく生命を説明できないのである。
このアイデアにかなり肉薄したのが、昔のライプニッツのモナドであろうか。モナドがその情報の素のようなものに近い。
ぜひライプニッツに降臨してもらいたいところだ。
いやはや、こんな問題に何年も時間を潰していたとは、俺も相当な暇人ですナ。