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【今昔物語】真鍋淑郎先生はなぜアメリカへ行ったのか?→俺「あの時代はアメリカは研究者にとって天国だった!?」

みなさん、こんにちは。

さて、ちょっと前に今回気象学への貢献でノーベル物理学賞




をおもらいになられた真鍋淑郎博士のことをメモした。

ところで、今回のノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎博士のノーベル賞受賞の際の言葉で、「どうして日本に戻らなかったのか?アメリカへ渡ったのか?」の質問に対する言葉に興味深いものがあった。


日本の人々は、いつもお互いのことを気にしている。
調和を重んじる関係性を築くからといい、
アメリカでは、他人の気持ちを気にする必要がありませ
アメリカでの暮らしは素晴らしいと思っています。
おそらく、私のような研究者にとっては
と国民性の違いを語ったという

まあ、この意見の話については、また後でメモするつもりだが、つまり、1950年当時、日米の給与は25倍の差があったこと(アメリカの1ヶ月分の給料が日本の2年分以上あったこと)や、日本には大型電子計算機がなかったこと、だから、数値計算屋は日本では仕事ができなかったこと、こういうことはいまの日本人は知らない。だから、今こういうインタビュー記事を見れば、大きな誤解を呼ぶということ。
真鍋さんのジャパニーズ英語の返答を聞いた所、「お互いのことを気にしている」とは言っていない。The Japanese always disturb each otherと言っていた。
つまり、「日本人はいつもお互いを邪魔し合っている」という意味だ。そうやって、平均的なものに落ち着かせようとするという意味である。
言い換えれば、新型コロナ間で流行りだした言葉「同調圧力」という事を言っている。日本人には同調圧力がある。同調するまでお互いを邪魔し合う国民性だ。
マスクしたくないならマスクしないで放っておくというような気質がない。
事実、アメリカの場合、トランプ支持の半数の州はノーマスクで、日本で報道される側のバイデン支持の半分の州だけがマスク着用義務だった。
にもかかわらず、日本のマスゴミ自体がマスコミ界の同調圧力のせいで、一切こうした現実を報道しなかった。


この真鍋淑郎博士がしたように、1950年代にアメリカへ留学し、後に永住権をとって、アメリカ人に帰化した例は数しれない。

私が知っている中でも、

南部陽一郎(素粒子理論)
白根元(物性実験)
木下東一郎(素粒子理論)
渡辺慧(素粒子理論)
高橋安人(制御理論)
真鍋淑郎(気象学)
安芸敬一(地震学)
金森博雄(地震学)
石原明(物性理論)、。。。

みなノーベル賞クラスに育った。

これが1950年代の頭脳流出の第一波であった。

というのは、終戦(1945年)日本は焼け野原になった。




では、なぜ彼らはアメリカを目指したか?

その1つが、戦後すぐに米国へ留学した湯川秀樹博士にあったと考えられる。

1949年湯川はコロンビア大学へ留学したが、その留学中に日本人初のノーベル物理学賞をもらった。


この時の渡航のとき、岡潔が京大時代に岡の数学の学生だった湯川に自分の論文をフランスのアンリ・カルタン先生に渡してくれと託したのだった。

その後、湯川が帰国後、多くの日本の若い物理学者に米国留学を勧めたのである。

そして、もう一つは、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞に端を発して、1953年に国際理論物理学会議が開催されたことである。



昔の拙ブログdoblogの記事はこんなのものがあった。

2004/10/18 のBlog

”謎”の国際会議

[ 15:09 ] [ 歴史 ]

1952年国際理論物理学会議
今や大昔のことで、『1952年は日本の物理学にとって非常に重要な年であった』、ということを知っている人はそう多くはあるまい。もちろん、私は1957年生まれであるので、この時を目撃できたわけではない。(これは、日本物理学会誌の1952年版に出ているので、図書館で探してみるのも悪くはないだろう。)

私はかねがね思っているが、NHKの『プロジェクトX』も結構だが、どうしてこの戦後初の国際会議である『1952年国際理論物理学会議』のことを調査・取材して歴史ドキュメントを製作しないのか、本当に不思議である、と思う。この会議ほど科学世界で”重要な”ものは、戦後においては、日本では(おそらく世界でも)例を見ないからである。

この時の全体集合写真は有名だが、私の見た範囲でも、湯川、朝永、坂田、永宮、久保、小谷など日本の物理学者は言うに及ばず、ベーテ、ファインマン、パイス、ダイソン、ワイスコップ、シュウィンガー、バーディーン、モット、オンサーガー、パイエルス、ファンブレック、アンダーソン、ウィグナー、ヤン、リー、ブロッホ、タウンズ、などなどの姿があるのである。

さらに、会議録の写真からは私には分からないが、会議録の名前から判断できる者には、以下の名前が拝見できる。メラー、レヴィー、ブルックナー、シッフ、バーバ、ホウィーラー、スレーター、レーディン、カールソン、フレーリッヒ、ザイツ、フランク、ネール、ブレームバーゲン、ゴーター、ワイス、ヴェンツェル、ライフ、パーセル、ドゥボアー、フローリー、カークウッド、プリゴジン、メイソン、メイヤー、ローゼンブラッシュ、仁科、西島、荒木、松原、冨田、豊田、中島貞夫、原島鮮、石原明、橋爪、伏見、桂、高橋秀俊、橋口、などなど。
この当時まだヤン、リー、アンダーソンなどは若手であるが、この会議に参加したこれらのほとんどの人は後々ノーべル物理学賞を受賞することとなったのである。この写真を見るのは、何か”宝探し”をするような”観”がある。

この会議の重要なところは、この会議の後、海外の(特にアメリカの)かなりの研究者が一時的であれ、何年かであれ、日本に留まったということである。有名なものは、アンダーソン博士が東大の久保研に留学したこと、ファインマンが国内の主要な研究室を滞在していったこと、などがある。

この時のことはアンダーソンの自伝(どの本にあったかはちょっと忘れてしまった)にもあり、『久保は”アンダーソンを発見した”というが、実際には私が”久保を発見した”のだ』というくだりがある。一方、ファインマンの自伝(『ご冗談でしょう、ファインマンさん』)には、この会議の最中に同僚のパイスといっしょの旅館に泊まり、日本人の仲居に”フリチン”を見せて喜んでいたという話が書いてある。

この会議のさらに重要なところは、この後、知り合った日米の物理学者がアメリカの”好意”で『そのほとんどがアメリカの大学や研究所に留学”できた”』ことである。南部陽一郎、朝永振一郎、石原明、梅沢、高橋、木下、砂川などがそうである。そしてこの時期に留学したかなりの研究者(南部、石原、梅沢、木下など)は永住権を取って末永くアメリカ(やカナダ)で研究を続けたのである。

このように、この会議に参加した者たちは日米欧を問わず、終生互いに”友情”を失わず、戦後の世界の物理学や理論物理学世界をリードしていったのである。この意味でもこの会議のドキュメントが欲しいところである。残念ながら多くの研究者はすでに亡くなってしまった。また日本人でこれに参加した方々、湯川、朝永、坂田、久保などもすでに亡くなっている。そして現存している方々も高齢となり亡くなりつつある、というのが現実である。この意味でも、この会議の”早急”の歴史的調査が望まれるのである。



この会議の後、リチャード・ファインマンは何ヶ月か日本国内の大学をまわった。
この会議の刺激がアメリカ行きの空気を日本の若手研究者に生んだわけである。

それは当然だっただろう。

第二次世界大戦後、アメリカだけが当時の先進国の中で唯一無傷だった。割と早く復活したのは比較的軽症だったイギリスであり、フランスとドイツは復興までかなり時間がかかった。

日本はいうまでもなく、非常に時間がかかると誰もが予想した割には、早く復興と遂げたのだった。
しかし、1950年代はまだ日本が無事に復興できるかどうかの見込みもなかった時代であった。

そういう以上の状況の中で、多くの日本人がアメリカへ留学したのだった。

その理由は、以下のものだった。

(1)当時の日米の給料格差は25倍あった。
アメリカの1ヶ月分で日本の2年分以上の所得があった。

(2)大型の汎用の電子計算機が日本にはなかった。
当時はアメリカで電子計算機が発明されたばかりで、我が国にはなかった。
当時は、手回し計算機や計算尺やアナログコンピュータで計算するしかなかった。

(3)学者の数が全く違った。
当時は日本はまだ衣食住すらままならない。大学と言ってもプレハブのような掘っ立て小屋で、とてもまともに研究できる状態ではなかった。

(4)自由の国アメリカの雰囲気があった。
当時はアメリカは共産主義の感じがなく、非常に古き良きアメリカの文化が残り、居心地が良かった。
だから、日本にはない近未来的なアメリカの雰囲気があった。
それが、むしろ最近では逆になったようだ。


というようなわけで、多くの若い学者さんたちがアメリカへ行ったのである。そして、行ったきり日本へ帰ってこなくなった学者もたくさんいたのである。

今も昔もアメリカの大学でテニュアのある正教授になることはたいへんである。良い業績を上げたり、言葉に不自由しなくなった学者はそのままアメリカ人になったわけである。

一方、アメリカへ行ったがそれほど良い業績を挙げられなかったり、正教授が得られなかったりした場合は帰国し、日本の大学、主に旧帝大の国立大学の職を得た。

こうして、帰国して大阪大学理学部の教授になった人に、砂川重信博士がいた。

私は阪大時代に一度砂川先生の講義をとったことがあった。砂川先生は理学部の物理にいて授業は理学部のものであったが、私は隣の基礎工学部に所属したのだが、理学部の授業を聴いたのだった。

同じようにして、一般相対性理論の内山龍雄先生の授業をとったことがある。

彼らの講義の面白かった所は、アメリカ留学中、あるいは、その直前に起こった研究上のトラブルについてやアメリカで出会ったアメリカの物理学者の普通語られないエピソードの数々についてだった。

そんな話の中で、砂川先生がいつも話したのは、アメリカの給料が日本の25倍もあって、非常に得をしたという話だったナア。

そんな話の中に、砂川先生がアメリカに留学したら、すでにアメリカで活躍していた南部陽一郎博士が日本人の新参者に対していろいろアドバイスしてくれたというのだが、そんな中にこんな話があって、これはいまだによく覚えている。人間、くだらない話ほどよく覚えているものだ。

南部陽一郎先生が、砂川先生にもし金に困った場合は、

「ドラッグ店(日本のスーパーのようなもの)へ行けば、安くて美味しい猫缶印や犬缶印の缶詰があるから、君もそれを食べたら良いよ」

と教えてくれたというのだ。

今思えば、これって、いわゆるキャットフードやドッグフードのことだろうが、聴いた当時は「へ〜〜」っていう感じだった。

それで、何年か後に今度は私がアメリカへ留学したとき、新参者の私にいろいろ教えてくれた日本人留学生がいた。その人のいつも定番ジョークが、

アイダホの黒人はキャットフードを食べている

というものだった。

しかしながら、キャットフードやドックフードは今流行りのイベルメクチンのような虫下しや抗生物質が入っているし、それなりに味が研究されているから、美味しいには違いない。

意外にキャットフードやドックフードの方が人間用のマクドナルドよりは健康に良いかも知れないわけだ。



この最後の方に含有物の話があって、発がん物質が入っていることが暴露されている。



また、番外編とすると、1950年代から1970年代のアメリカには、

最高の暮らしとは 、日本人の妻を持ち、イギリスの家に住み、中国人のシェフを雇い、アメリカの給料で生活する

最悪の暮らしとは 、アメリカ人の妻を持ち、日本の家に住み、イギリス人のシェフを雇い、中国の給料で生活する


というようなジョークがあったことを加えておこう。これほど日本女性は当時も今も人気があった。

いまや

最高の暮らしとは 、中国人の妻を持ち、イギリスの家に住み、日本人のシェフを雇い、北欧の給料で生活する

最悪の暮らしとは 、アメリカ人の妻を持ち、日本の家に住み、ロシアのシェフを雇い、日本の給料で生活する


だろうか?

まあ、いろんなバージョンが考えられるだろう。



ところで、なぜ真鍋淑郎博士や金森博雄博士がアメリカへ行って世界的な大研究者に育ったかというと、それが実は我が国の戦前に残った寺田寅彦の物理学の伝統であった。

つまり、寺田物理学。非常に経験や実証を重んじる気質の物理学である。

この精神で書かれた本があることを最近知ったが、アマゾンでは高すぎて変えないから、幸い県立図書館にあったので、取り寄せてコピーしたのだった。以下の本である。


藤原咲平著「雲をつかむ話」
【今昔物語】真鍋淑郎先生はなぜアメリカへ行ったのか?→俺「あの時代はアメリカは研究者にとって天国だった!?」_a0386130_11340207.jpg

この本は気象学と地震学と太陽学の話で、今読んでも読みごたえのある本である。問題は、旧漢字仮名遣いのために現代語ではないということである。復刻版が待たれる。


この中に、和達清夫博士が写真入りで出ていた。この人こそ、ソリトン理論で有名であったが早世された和達三樹博士の父であった。

この時代の精神は本当に学者的な学者の時代であったと思う。
こういう先人たちの研究があったればこそ、真鍋淑郎博士も登場できたのである。


まさに今は昔の物語である。







弥栄!







【今昔物語】真鍋淑郎先生はなぜアメリカへ行ったのか?→俺「あの時代はアメリカは研究者にとって天国だった!?」_e0171614_11282166.gif

by kikidoblog3 | 2021-10-22 11:43 | 数・理・科学エッセイ

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