みなさん、こんにちは。
あの伝説のレジェンド、ゲルト・ミュラーが逝去された。
サッカーの元西ドイツ代表FWで「爆撃機」の異名を取ったゲルト・ミュラーさんが15日に亡くなったと、現役時代にプレーしたバイエルン・ミュンヘンが発表した。75歳だった。
西ドイツ代表としては1970年のワールドカップ(W杯)メキシコ大会で得点王に輝き、地元開催の74年W杯では決勝でゴールを決めるなど優勝に大きく貢献した。
思い出すことはいろいろあるナア。
まず、私が高1で甲府南サッカー部に入部した時、3年生に二人のFWがいた。
その一人が、通称「ゲルト・三浦」だった。
姓が確か「三浦」。それで、ゲルト・三浦とつけたんだと思う。
だから、後輩のは我々は、ミュラーさんではなく、三浦さんと呼んでいた。
つまり、この旧西ドイツの伝説のフォワード、ゲルト・ミュラーのプレーを真似たのだ。
ヨーロッパ人にしては、小柄で胴長短足のゲルト・ミュラーは、我々日本人には格好のお手本だった。
だから、多くの若者が真似たのだ。
とにかく、彼の太ももが太かった。もも周り65cmとか、70cmとか言われたのではなかったか?
マラドーナも65cmあった。ペレも太かった。
ももが太い。これがジャンプ力を生む。
ところで、最近、このジャンプ力の秘密がわかったと思う。
東京五輪の特集で、競泳女子で金メダル2個をとった滋賀県出身の大橋悠依選手が、
直前までのトレーニングで行っていたのは、平泳ぎのためのキック力の強化。
その練習が、重量挙げ選手のようにバーベルを肩に担いでの屈伸やジャンプだった。
つまり、太ももの強化。
同様に、重量挙げの秘訣がジャンプ力だったということもわかったといえるだろう。
バーベルを上げるのは腕や上半身だけでは不可能。
下半身を使い体全体でジャンプ力を使って反動で上げる。
この場合も、太ももの強化が必要だ。
いまから50年前、西ドイツのサッカー代表では、すでに10競技の選手のような陸上練習を行っていた。
バーベルを使った練習も行った。
だから、とてつもないフィジカルを手に入れたのだった。
その代表格が、ゲルト・ミュラーだったというわけだ。
そして、あの伝説のヨハン・クライフのオランダとの決勝戦。




まさにボンバー、ゲルト・ミュラーだった。
私もこの試合をリアルタイムで見ていたと思う。深夜だったか。この退屈な立ち上がりで始まった試合を見た。
しかし、最後にゲルト・ミュラーの反転シュートで勝負がついた。
そして、1975年1月5日、このゲルト・ミュラーやベッケンバウワーのいたバイエルン・ミュンヘンが日本にやってきた。
日本代表vsバイエルン・ミュンヘン。
これを私は国立競技場まで見に行ったのだった。
この時、私は同級生2人と見に行った。私は岩田先生から頂いた先生の特別席で見た。仲間は一般席で見た。
ハーフタイムに、金髪の若い選手がたった一人で、他の選手とプレーしないで、アップしているものがいた。
その選手が、後半左サイドのウィンガーとして登場した。
今もはっきり覚えている。
その時は、その程度の記憶しかなかったが、のちのち何十年も経って、それが伝説のルンメニゲだったことがわかった。
当事19歳。伊藤蘭さんと同い年。
日本代表には、釜本や大仁や清雲、さらに赤き血のイレブンのモデルになった俊足永井良和がいた。
最近は、このゲルト・ミュラーさんは、アルツハイマー病にかかっていたということはちょっと前から聞き知っていた。
サッカー選手が脳障害やアルツハイマー病になりやすいというのは、かなり前から言われてきたことである。
ヘディングのせいだということになっているが、本当にそうかどうかはわからない。
私も中学のFW時代、ヘッドをすると、特にGKが蹴ったボールを直接ヘッドすると、頭に星が飛ぶ状態だったり、クラっと来たりしたものだ。昔のボールは今のボールと違い、重かった。さらに、水分を吸収するとますます重くなった。だから、雨の日の試合でヘッドをすると、かなりのダメージを食らった。
当時、GKからのボールをヘッドするたびに、「数学の公式1つすっ飛んだ」「私はだれ?」なんて冗談を言い合ったものだ。
ヨハン・クライフもいなくなったし、ゲルト・ミュラーもいなくなってしまった。
我々の時代のレジェンドがどんどんいなくなってしまうナア。寂し限りだ。
いずれにせよ、ゲルト・ミュラー選手のご冥福をお祈りいたします。ぜひ今度は日本人に生まれ変わって欲しい。