すでにこの3人は、2019年のハイネマン賞に輝いた。このハイネマン賞は、理論物理でもっとも世界に貢献した研究を称えるアメリカ物理学会の自負する世界的な数理物理学の賞である。理論でノーベル賞を貰う人の場合は、大半がすでにこの賞をもらっている場合が多い。
このビル・サザーランド先生は、ミズーリの田舎育ちの人で、アメリカ人には珍しく、非常にdeffidentな人で、CNYang先生からもそのように形容された。たぶん、日本語で一番近いのは、「恥ずかしがり屋」という感じだろうか。
我々は下手な英語で何かを話し始めたら、すぐにその言わんとする所を察知し、「君が言いたいのはこういうことだろ」と、より適切で端的な表現に変えてくる。そんな人である。


なぜなら、ビル夫婦は、山ごもりが大好きで、ハイネマン賞の受賞の知らせを受けたときは、ロッキー山脈の中の別荘のロッジぐらしだったようだからだ。やはり夫婦というものは、お互いの生活感やリズムが合わないと長続きはしない。
私がビルの家ではじめて、最初で最後だったが、PhD取得のお祝いパーティをしていただいた時の、手作りのラザーニャの味は今も忘れない。あれほどうまいラザーニャは食べたことがなかった。
以来私はラザーニャのファンになったのだが、一度、山梨の清里のレストランでラザーニャを食べたら、その大きさに驚いた。あまりに小さすぎた。皿の真ん中にちょこんと1個だけ。以来日本でラザーニャを食べるのは諦めた。
はたして、ビル・サザーランド先生のノーベル物理学賞は来るか?
まあ、すでにずっとノミネートされているはずだから、長生きしていれば、いつか必ずその時は来るだろうことは間違いない。
ちなみに、私はビルの学生だったが、ビルの分野での研究はない。むしろ、テーマとしては甲元眞人先生の分野で行った。
なんとロシアのサイトにリンクが張ってありましたよ。
だから、私がビルといっしょに名前がついた論文はたったの2つだけ。以下のものである。
この頃は、私が留学したばかりの頃で、まだ甲元先生もサザーランド先生も私のファーストネームを知らなかった。だから、Kazumotoを省略してK.になってしまった。
このアイデアは私が留学前の甲府の公営プールで泳いでいた時、プールの輝く波面を見ながら、やはり光学系でやるのが一番だろうなと考えて、アメリカに行ったらこれをやろうと決めていたものだった。それで、最初のサンクスギビングの休み中に、ボルン-ウルフの光学の本を見ながら計算したのだった。それで、うまく行ったから、翌週の月曜日に、最初に甲元先生に話に行くと、まだ甲元さんは大学に来ておらず、それではじめてビルの部屋のドアを叩いて、このアイデアを拙い英語で説明したのだった。それで、後で甲元先生に話してみるということになって、それから1週間ほどでプレプリになった。そのプレプリには私の名前がなかったが、それでも私は留学させてもらった甲元先生への感謝の印だから、まあそれでも良いかと思っていたら、次の改訂版には私の名前も最後につけてくれていたというものだったのだ。
これは、たまたま私が分数排他統計の研究をしていた頃、ビル・サザーランド先生も同じテーマで研究を行っていた。私が1次元から任意の次元への拡張をやっていると、ビルは1次元から2次元への拡張を行っていた。それで、私は自分のやっていたこととビルのやっていたことを合流させて、3次元バージョンを作ったというのがこの論文だった。
簡単にいうと、長距離の多体相互作用のある量子系の場合、フェルミ球の内部と外部で波数空間の密度が変わる。その密度の変化により、準粒子の統計的性質が変わる。それゆえ、相互作用によってボーズ統計からフェルミ統計の中間の統計が生じるという論文。通常のフェルミ液体の場合は、粒子間の相互作用は遮蔽効果で短距離相互作用になると考える。こういう場合は、準粒子の有効質量だけが変わり、フェルミ球の内外の波数空間の密度は変化しない。だから、準粒子の統計は変化しない。
とまあ、こんなものしか共著はない。
それにしても、20代後半であれほど良い研究を生み出したのは、素晴らしいことだと思う。思えば、私がPhDの博士論文のネタを生み出せたのも、20代後半。やはり、理論物理学は20歳代でないとだめだというのは本当かもしれませんナ。
ところで、私が生まれた時の1957年10月のスプートニク・ショックの時にソ連に対抗するためにアメリカで天才児発掘計画が生まれたのだが、このビル・サザーランド先生はそれによりミズーリで発見された天才児の1人だった。だから、学校もほとんど飛び級で大学へ進学した。ベトナム戦争もCNYang先生の働きで免除された。おそらくオンサーガーやファインマン並みの知能の持ち主だと思う。
たしか、ファインマンの本の中の写真で、ファインマンの部屋の黒板にビルの研究のことを勉強している様子が描かれていて、それを非常に喜んでいたのと覚えている。「この黒板を見ろ。ファインマンがベーテ仮説を勉強していたようだ」と言っていた。
R.ファインマンの黒板
ちなみに、ビル・サザーランド先生の美しい物理の本がこれだ。

若い人たちはぜひこの本を勉強してほしい。
この本は、ビルがサバティカルの間に、京都大学の基礎物理学研究所に招聘された数ヶ月の間で書かれたものである。
当時京大基研にいた川上則夫博士が、シュリラム・シャストリー博士といっしょにビル・サザーランド先生を招聘した。
この時、我が家は京都まで一家でビルに会いに行った。たしか有名な湯豆腐屋で晩餐会をしたのを覚えている。
だから、この序文の謝辞には、この京大基研の人たちの名前がある。
川上氏は阪大工学部の興地先生の弟子で、当時から可積分系の若手として有名だった。私は基礎工にいたから、彼の話は噂で聞いていた。その当時、まさか私の先生がビル・サザーランドになるとは夢にも思っていなかった。
人生は廻るメリーゴーランドだ。
ビル先生のノーベル賞受賞を心から期待したい。