みなさん、こんにちは。
先日以下のものをメモした。
これの中で、アメリカのラビ(あるいはラービ、ラーバイ)
のことをメモした。
たぶん、我々日本の物理学の世界では、あまり馴染みがないのではないかと思う。しかし、かのコロンビア大学の物理の大御所。ノーベル物理学賞学者。
この人のヨーロッパ時代を見ればわかるように、一言でいえば、ラビは、
つまり、物理の後進国だった、当時の日米において、ヨーロッパの科学技術に追いつき追い越せの時代のリーダーだった。
実際、イシドール・ラビ博士と仁科芳雄博士は非常に似ている。仁科芳雄の方がイシドール・ラビより、8歳年上。
彼らはほぼ同じ時期にヨーロッパに留学した。まさに量子力学の黄金期だった。
最初は彼らともに量子力学の理論を研究する。仁科芳雄は、クライン仁科の公式を発見する。
ラビは、ドイツのゾンマーフェルトのポスドクになり、そこで助手のハンス・ベーテやルドルフ・パイエルスと親しくなった。
しかし、後に彼らはともに実験家になる。
仁科芳雄は、帰国後理化学研究所で実験を行う。加速器を作る。おそらく、戦争がなければ、仁科芳雄博士が日本人最初のノーベル物理学賞をもらったはずだ。
イシドール・ラビは、帰国後、コロンビア大学で実験を行う。MRI(核磁気共鳴)を発見。後にノーベル賞をもらう。このMRIがいまのMRIスキャンの基本原理である。
さらに、仁科芳雄は、理化学研究所で、当時京都大学の学生あがりの朝永振一郎を指導した。一方、イシドール・ラビはコロンビア大学でジュリアン・シュウィンガーを指導した。
朝永とシュウィンガーは、ファインマンと共に量子電気力学の完成者としてノーベル賞をもらう。
戦前戦中戦後の日本で、量子力学を日本に広めたのが、仁科芳雄博士だったとすれば、戦前戦中戦後のアメリカで、量子力学をアメリカに広めたのが、イシドール・ラビ博士だった。
こういう意味で、我が国はもう少し、イシドール・ラビ博士のことを研究しないといけないのではなかろうか?
物理では、イシドール・ラビ。数学では、ノーバート・ウィーナー。
この二人が、戦後のアメリカへ欧州のユダヤ人物理学者や数学者を大量に招き入れた張本人だったのだ。
そして、ラビもまたマンハッタン計画で原爆開発に協力した。
ところで、どうして広島長崎だったのか?
俺個人の考えでは、最良のものは、ソウルと平壌だったと思う。この2ヶ所に原爆を落とせば、その後の朝鮮戦争はなかっただろう。ロシア軍は朝鮮半島に近づけなかった。
あるいは、平壌と山口。これでも良かった。平壌と山口は古来反朝廷、反幕府、反日の拠点の一つだ。
なぜ広島長崎だったのか?
ほんと謎ですナ。