みなさん、こんにちは。
さて、寝ても覚めてもキャンディーズ、キャンディーズ。今日も元気にキャンディーズで行ってみよう。
とまあ、これでここ数ヶ月来たわけだが、私個人はいまだにキャンディーズを毎日毎日聞いている。しかしながら、ここメモすることはもうほとんどない。
強いて言えば、あのマネージャーの2人がいかにクソ野郎どもだったか。その程度だろう。
というわけで、ここ最近はまた海に行っているが、あっという間に、腕が日焼けしてしまった。それも、光過敏症というやつだ。あまりにかゆい。どうも俺は、最近はこれがひどい。
これは老人性とか、アレルギー性とか、遺伝性とか、いろいろ理由があるようだが、どうも最近乳製品が大丈夫のようになったこと、それでカゼインをとりすぎたことが原因のように感じる今日このごろだ。それで、再びチーズ類を止めた。
さて、昨日の動画
やその前の歌の練習
の量子力学「量子論の物理的基礎」
という本を読んでいる。
この本は1929年にウェルナー・ハイゼンベルクが、米シカゴ大学で集中講義した講義録である。それが、1930年の3月3日に出版されたものである。
私が買ったのは、2019年の9月9日。実は、学生時代にこれを買っていたと思うが、1986年に私がアメリカに留学する前に、母校の甲府南高校の図書館へ800冊ほど本を寄贈したんだが、そのときの中に入っていると思う。たしか、段ボール箱20箱分の図書を寄贈した。
この頃、引退後の隠居生活の両親の家は狭すぎて置く場所がなかったからだ。
だから、学生時代には読んだと思うが、あまり記憶がない。
しかしながら、今読んでみると、これほど量子力学のエッセンスを端的に短くまとめた本というのはあまりない。
の教科書を読めばわかるが、朝永とシュウィンガーの教科書の種本がこれだ。おそらくそうだ。
ハイゼンベルクの教科書をより詳しく懇切丁寧に学生にわかるように書き換えたものが、朝永とシュウィンガーの本だ。
事実、朝永先生がドイツへ留学したときの師匠がハイゼンベルクだった。
であった。
このアメリカのユダヤ人ラビの時代は、まだアメリカの学者はヨーロッパに留学しなければならない時代だった。
だから、ラービは、ドイツへ留学した。
ヨーロッパ[編集]
1927年5月、Barnard Fellowに任命された。これにより1927年から1928年6月までの間1,500ドル($21,635 in 2020 dollars[12])の給費(stipend)がついた。すぐにニューヨーク市立大学シティカレッジからの1年間の休学を申請し、ヨーロッパで勉強することにした。この申請が拒否されると辞職した。エルヴィン・シュレーディンガーのところで働きたいと願いチューリッヒに着くとすぐに、2人の同輩のアメリカ人Julius Adams Strattonとライナス・ポーリングと出会った。彼らはシュレーディンガーがベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学の理論研究所の所長に任命されたため、チューリッヒを離れることに気づいた。そのためラビは代わりにミュンヘン大学でアルノルト・ゾンマーフェルトとの職を求めることにした。チューリッヒではさらに2人のアメリカ人、ハワード・ロバートソン、エドワード・コンドン(英語版)と出会った。ゾンマーフェルトはラビをポスドク学生として受け入れた。ドイツの物理学者ルドルフ・パイエルス、ハンス・ベーテも当時ゾンマーフェルトと働いていたが、3人のアメリカ人と特に親密になった。
Willsのアドバイスで、英国科学振興協会(British Association for the Advancement of Science)の第97回年次総会のためにリーズへ行き、そこでヴェルナー・ハイゼンベルクが量子力学に関する論文を発表するのを聞いた。その後、コペンハーゲンに移り、ニールス・ボーアのもとで働くことを希望した。ボーアは休暇中であったが、ラビは早速水素分子の磁化率の計算に取り掛かった。ボーアは10月に戻った後、ラビと仁科芳雄がハンブルク大学でウォルフガング・パウリと仕事を続けるよう手配した。
パウリとともに仕事をするためにハンブルクに来たが、オットー・スターンが英語話者の2人のポスドク研究員Ronald FraserとJohn Bradshaw Taylorとともに働いているのを知った。ラビは彼らとすぐに友人となり、彼らの分子線実験(スターンはこれにより1943年にノーベル物理学賞を受賞)に興味を持つようになった。彼らの研究には不均一な磁場が関わっており、操作が難しく正確に測定することは困難であった。ラビは代わりに均一場を使い分子ビームを視射角にしプリズムを通して光のように原子を偏向させるというアイデアを思い付いた。これは使うのが簡単で、より正確な結果を生成する。スターンの励みをうけ、Taylorに大いに助けられてラビは自身のアイデアをうまく実施することができた。スターンのアドバイスで、その結果についてのレターをNatureに送り、これは1929年2月に発表され、次いでZur Methode der Ablenkung von Molekularstrahlen(分子ビームの偏向方法について)というタイトルの論文をZeitschrift für Physikへ送り4月に発表された。
このときまでにBarnard Fellowshipは失効し、ラビとHelenはロックフェラー財団から来る月182ドルで生活していた。2人はハンブルクを去りライプツィヒへ向かい、ハイゼンベルクとともに仕事をすることを望んだ。ライプツィヒで同士のニューヨーカーであるロバート・オッペンハイマーを見つけた。これは長く続く友情の始まりであった。ハイゼンベルクは1929年3月にアメリカで働くために出発したため、ラビとオッペンハイマーはパウリが物理学教授をしているチューリッヒ工科大学へ行くことを決めた。ラビに対する物理学の教育はそこで出会った分野の指導者、ポール・ディラック、ヴァルター・ハイトラー、フリッツ・ロンドン、Francis Wheeler Loomis、ジョン・フォン・ノイマン、ジョン・クラーク・スレイター、レオ・シラード、ユージン・ウィグナーらにより豊かになった。
この経歴を見れば一目瞭然。ラビがまさに量子力学の草創期のヨーロッパで勉強していたわけだ。
ハイゼンベルクが世界初で量子力学の発見の発表を行った、その講演をその場で目撃した張本人の1人だったというわけだ。
アメリカへ戻れば、それをアメリカの学者たちや学生たちに教えるのは当然。
というわけで、ラビもまた、ハイゼンベルクの思想圏に詳しいわけですナ。
ゆえに、その指導教官の下で育成されたシュウィンガーは知らず知らずのうちにハイゼンベルクの後継者になっていくはずだ。
さて、このハイゼンベルクの本のどこか面白いのか?
必要最小限のことが綺麗にまとめられているからだ。
いわゆる「東大ノート」よりはるかに高レベルの「ゲルマンノート」ともいうべき簡潔さ。
量子論の数学的構造
という章は、たったの36ページ。これで、量子論から第二量子化と輻射の理論までをまとめている。神業だ。
当時のドイツ人の頭脳がいかにクリアだったか。これを物語る。
ハイゼンベルクの盟友のウォルフガング・パウリの教科書はその3年後の1933年に出版されたものだ。
ハイゼンベルク、ディラック、シュレーディンガー、パウリ、この時代の人の明晰さは尋常ではない。そう思う今日このごろですナ。
いまの時代の知能では、量子力学は発見できなかったのではなかろうか?
ところで、この時代のドイツ人の教育法がどんなものだったか知っているだろうか?
数学者のデービッド・ヒルベルトもそうだったらしいが、ビール談話であった。
彼らは、もう夕方には、ビアホールへ繰り出す。
そこで、ソーセージとフライドポテトにビールで、ビールを飲みながら最新の研究を楽しみながら議論する。
そんな感じだったらしい。
そうしているうちに、自分の知らない分野の最新情報をお互いに伝授し合う。
イギリス式は、3時のおやつスタイルだ。
イギリスは、3時になると、みなサロンに集まってくる。
そこで、お茶を飲みながら、テーブルに置かれたクッキーを片手にお互いの研究談義に花を咲かせる。
実は、ユタ大学の物理学部もこのティータイム方式だった。毎日だったか、毎週木曜日だったか忘れたが、たしか毎週木曜日だったと思う。木曜日にはセミナーがある。その後か前にこういうティータイムがあった。
我々院生はあまりカネがない。そこで、夕食までの腹が減った頃、ちょうど3時のおやつタイムにサロンへ行くと、そこには教授陣が威風堂々と片手にクッキー、片手にコーヒーカップを持ちながら話し込んでいる。
そこへ、我々が行く。
はーい、ビル。ハワーユードーイング?
こうして、素早くクッキーを2,3枚手に入れる。そうやって、コーヒーを自動販売機で買い、教授たちの話を聴く振りをしながら、クッキーを頬張る。
そんな感じだった。
ところが、ある日大事件が起きた。
直径50cmほどのクッキーの皿にクッキーが置かれているのだが、それを毎回3時に秘書が置いておく。
ところが、秘書が大量のクッキーをテーブルの上に置くと、次に様子を見に来たら、そのクッキーが皿ごと消えていたのだ。
秘書は何が起こったかまったく理解できない。
実は、当時中国から留学してきたばかりの中国人留学生が、仲間のために、皿ごと持ち去ったのだった。
そんなことを全く知らずに後からクッキー目当てに来た我々日本人留学生まで疑われて大変だったんですナ。
アイムノットギルティー!
いやはや、中国人はまったく変わらない。
遺伝ですナ。
ところで、私がハイゼンベルクに特に親近感というか、気に入っているところは、ハイゼンベルクは極めて運動神経が良かったということだ。ニコラ・テスラもそうだった。
ドイツ人のハイゼンベルクはスキーはプロ級。卓球もうまかったようだ。きっとサッカーも出来ただろう。
そこへ行くと、ユダヤ系は運動はだめの人が多い。東大生に似ている。
ニコラ・テスラは、ニューヨークで立ち上げた会社が潰れて、露頭に迷った時代。肉体労働をしていた。その時の労働者と経営者側のストライキで乱闘になった時、最後まで立っていられたのはニコラ・テスラだけだったという伝説がある。
アメリカに渡る途中の船上での船長側と船員側の乱闘でもそうだった。ニコラ・テスラは喧嘩も相当に強かったのだ。
こういう人に非常に惹かれるんですナ。