ヨーロッパ[編集]
1927年5月、Barnard Fellowに任命された。これにより1927年から1928年6月までの間1,500ドル($21,635 in 2020 dollars[12])の給費(stipend)がついた。すぐにニューヨーク市立大学シティカレッジからの1年間の休学を申請し、ヨーロッパで勉強することにした。この申請が拒否されると辞職した。エルヴィン・シュレーディンガーのところで働きたいと願いチューリッヒに着くとすぐに、2人の同輩のアメリカ人Julius Adams Strattonとライナス・ポーリングと出会った。彼らはシュレーディンガーがベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学の理論研究所の所長に任命されたため、チューリッヒを離れることに気づいた。そのためラビは代わりにミュンヘン大学でアルノルト・ゾンマーフェルトとの職を求めることにした。チューリッヒではさらに2人のアメリカ人、ハワード・ロバートソン、エドワード・コンドンと出会った。ゾンマーフェルトはラビをポスドク学生として受け入れた。ドイツの物理学者ルドルフ・パイエルス、ハンス・ベーテも当時ゾンマーフェルトと働いていたが、3人のアメリカ人と特に親密になった[13]。
Willsのアドバイスで、英国科学振興協会(British Association for the Advancement of Science)の第97回年次総会のためにリーズへ行き、そこでヴェルナー・ハイゼンベルクが量子力学に関する論文を発表するのを聞いた。その後、コペンハーゲンに移り、ニールス・ボーアのもとで働くことを希望した。ボーアは休暇中であったが、ラビは早速水素分子の磁化率の計算に取り掛かった。ボーアは10月に戻った後、ラビと仁科芳雄がハンブルク大学でウォルフガング・パウリと仕事を続けるよう手配した[14]。
パウリとともに仕事をするためにハンブルクに来たが、オットー・スターンが英語話者の2人のポスドク研究員Ronald FraserとJohn Bradshaw Taylorとともに働いているのを知った。ラビは彼らとすぐに友人となり、彼らの分子線実験(スターンはこれにより1943年にノーベル物理学賞を受賞[15])に興味を持つようになった[16]。彼らの研究には不均一な磁場が関わっており、操作が難しく正確に測定することは困難であった。ラビは代わりに均一場を使い分子ビームを視射角にしプリズムを通して光のように原子を偏向させるというアイデアを思い付いた。これは使うのが簡単で、より正確な結果を生成する。スターンの励みをうけ、Taylorに大いに助けられてラビは自身のアイデアをうまく実施することができた。スターンのアドバイスで、その結果についてのレターをNatureに送り[16]、これは1929年2月に発表され[17]、次いでZur Methode der Ablenkung von Molekularstrahlen(分子ビームの偏向方法について)というタイトルの論文をZeitschrift für Physikへ送り4月に発表された[18]。
このときまでにBarnard Fellowshipは失効し、ラビとHelenはロックフェラー財団から来る月182ドルで生活していた。2人はハンブルクを去りライプツィヒへ向かい、ハイゼンベルクとともに仕事をすることを望んだ。ライプツィヒで同士のニューヨーカーであるロバート・オッペンハイマーを見つけた。これは長く続く友情の始まりであった。ハイゼンベルクは1929年3月にアメリカで働くために出発したため、ラビとオッペンハイマーはパウリが物理学教授をしているチューリッヒ工科大学へ行くことを決めた。ラビに対する物理学の教育はそこで出会った分野の指導者、ポール・ディラック、ヴァルター・ハイトラー、フリッツ・ロンドン、Francis Wheeler Loomis、ジョン・フォン・ノイマン、ジョン・クラーク・スレイター、レオ・シラード、ユージン・ウィグナーらにより豊かになった[19]。
【量子力学】ハイゼンベルクの量子力学の本の話→俺「昔のドイツ人はビアホールで物理を行った!?」
2021年 06月 25日