パブロフの犬
みなさん、こんにちは。
今回の拙著の「あとがき」を読んで、私が東大や京大で会うような物理学者とまったく違う物理学者だということが分かったのではなかろうか?
私は、バリバリのサッカーのエリート教育を受けて育ったバリバリのサッカー選手だった。それから、ほとんど独学で数学や物理をものにして、バリバリの理論物理学者になったという理論物理学者である。
だから、大学や研究所の普通の物理学者とは全く違う感性を持っている。
私が学者を見た時、私が一番最初にどこを見るか知っているだろうか?
私は、そいつがサッカーボールをリフティングできそうかどうかを見る。運動神経を見る。
私は、運動神経の鈍いやつが、本当の物理ができるか?と疑うのだ。
それから、その人の運動能力に合わせて、話題を変えていく。
だから、最初から普通の大学の先生達とはうまが合わなかった。大半の大学院生とも、この意味では、感覚が異なった。
逆に、相手からすれば、逆の立場で、私を見ているだろう。
こいつは、灘出身か?教育大駒田出身か?麻布出身か?開成か?ラ・サールか?駿台模試の順位はどこだ?
私にはそうした記録はない。私は、新人戦県ベスト4。サッカー高校総体県ベスト4。
これしかないからだ。模試ははるかランク外。記録に残らない。
だから、大学院に入った時、だれ?この威勢のいいやつは?そんな感じだった。
さて、前置きが長くなったが、何をテーマにしているか?
というと、結論からいうと、
脳みそは筋肉と同じだ
という意味だ。
つまり、サッカーから理論物理に来たからこそわかったこと。それがこれだ。
一般人、特に、凡人と呼ばれる人、自分をそう思っている人、こういう人は、
脳は特別だ
と思っている。思い違いをしているのだ。
だから、自分が勉強できないのは、頭が悪いからだと思っている。自分が数学がわからないのは、脳が性能が悪いからだと思っているわけだ。
私はそれは違う。間違っていると知っているわけだ。
単に訓練や鍛錬の差に過ぎないのだ。
東大生が頭が優れて見えるのは、幼少期の2才児から、教育ママの奏でる教育プログラムに乗って、その頃から基礎トレーニングをしてきたからに過ぎない。
久保建英選手が天才サッカー選手に見えるのは、同じように幼少期の2才児から、サッカーパパの奏でるサッカー教育プログラムに乗って、その頃から基礎トレーニングをしてきたからにすぎない。
勉強とサッカーの何が違う?
勉強は身体はそれほど使わないが脳を使う。サッカーは思考はそれほど使わないが筋肉を使う。
しかし、どちらも鍛え方は同じだ。時間をかけて、少しずつ簡単なことから難しいことへ徐々に発展させていくのだ。
これができたら、次はこれはどうだ。これがクリアできたら、今度はこれだ。
こういうことを毎日毎日飽きるくらいに繰り返すだけ。
そうやって、考えずにできるようになったら、より高級なテーマを課題にだされる。
これを何年も繰り返していくだけだ。
どちらも必須条件がある。
素直さ、忍耐、勤勉さ
いちいち課題に文句言えば、それで終わり。逃げ出せば、それで終わり。繰り返さなければ、それで終わり。
ただそれだけ。
まさに、この段階の見た目は、
パブロフの犬にしか見えない。事実そうだ。訓練というものは、パブロフの犬にならない限り身につかないのだ。
ということは、サッカーの訓練法と東大合格のための訓練法が同じだったということは、何を意味するのか?
つまり、
脳みそは筋肉と同じだ
ということなのだ。言い換えれば、
脳を鍛えることは、筋肉を鍛えることと同じだ
ということになるわけですナ。
大半の先生はこれを知らない。普通の人は、これを怠る。
学問に王道はない!
この意味は、これを意味する言葉である。
思考の神様になるには、将棋の神様になるのと同じ努力が必要なのだ。
物理の神様になるには、サッカーの神様になるのと同じ努力が必要なのだ。
むろん、サッカー選手にもそのそれぞれに個性や能力や才能に差がある。学者や物理学者にも同様。それは人間は生まれながらにして平等ではないからだ。
しょうがない。
しかし、それぞれの持って生まれたハンディキャンプの中で、俺は、ハンデ−1でプレーする。俺は、ハンデ−10で努力する。
ゴルフのように、人生という一ラウンドをプレーしなければならないわけだ。
しかしながら、上達したければ、やらなければならないことは全く同じ。それには、プロもアマもない。
実は、今回の本の中で、「ウンモ星人」のことが出ていると思うが、このウンモ星人のユミットが、フランス人の有名な理論物理学者のジャン・ピエール・プチ博士に教えたことに、これとまったく同じことが書かれているのだ。
彼らはいう。
「地球人は、子どもたちにパブロフの犬の教育法をもっと取り入れるべきだ。そうやって能力を高めさせろ」
子どもたちに、自由を与えていはいけない。未発達の子供にはまだ、放縦と自由と錯覚してしまう。
たとえば、サッカーを知らない子供に、自由にサッカーボールで遊ばせたら、単なる鬼ごっこになるのと同じだ。
この子どもたちは、Jリーグには行かない子達だ。
同様に、幼稚園で、裸足で遊ばせるだけの幼稚園は、この幼稚園の出身者は、Jリーグにも東大にも行かない子供だ。
訓練はスポーツも勉強も同じだが、人間の発達には、時期がある。だから、適切な時期に適切なことを行わなければならない。
実は、すでに18世紀から19世紀の欧州では、このことが知られていたのだ。本になっていた。
ユダヤ人の世界では、2000年前の聖書の時代から、すでに知られていた。
1. あなたの子供を天才にしたければ、言葉の話す前。できれば胎児の頃から。これが胎教だ。
2. あなたの子供を秀才にしたければ、3歳前。
3. それからは、1年過ぎることに可能性は指数関数的に減っていく。
4. 一番遅くとも、12歳まで。
5. それを過ぎたら、無理するな、余計なことは考えずに、普通に生きよ。
おおよそ、こんな内容だ。
そして、これが現実社会では、その家庭の経済と、結びつく。つまり、1.に近いほど金がかかる。
1.の条件を実現するには、ある程度のお金持ちの主婦でないとできない。
胎教なら親がピアニストのユダヤ人レベルでないと不可能だ。
共働きのサラリーマンなら、3.か4.だろう。
普通のシングルママの教育は、5.だけだ。
だから、主婦を廃止した国ほど、国の知的レベルが下がったのだ。いまのアメリカに昔のアメリカの知性はない。いまの日本に昔日の日本の面影はない。両者ともに、知性の代わりに、痴性が育っただけ。おまけに、品性もなくなった。
主婦がなぜ大事か?
つまり、子供に英才教育できるからだ。
通称、西洋では、これをジューイッシュマザーという。教育ママのことだ。
なぜ大坂なおみが大坂なおみになった?
彼女は、すっかり忘れたようだが、だから、問題は、うつ病より、健忘症の方が重症だ。
それは、日本テニス協会が、彼女がジュニアの時代から目をつけて、ずっとエリート教育のために日本の税金を使ってきたからだ。それは、時期的に今度の東京五輪を見据えた長期計画だったからだ。
ちょうど、サッカーの中田英寿選手と、大坂なおみはかぶるのだ。同じような境遇だった。
中田英寿は、アトランタ五輪に照準を定めて日本サッカー協会が全面的にバックアップしたのだ。
選手は、ぜんぶ自分1人の努力でここまできたと信じたい。俺もそうだった。中田も大坂なおみもそうだ。
だから、俺は物理へ来てしまった。
今思えば、それは一種の背信行為だったと思う。
やはり、私のためにサッカーでいっしょに汗を流してくれた同僚やコーチや監督や親たちの存在を忘れるべきではなかった。
63歳のいまになって、これは大きな間違いだったと思う。
それでそれをやってみて、それでだめだったから、物理へ来ても良かったと思う。これがいまの俺の考え方だ。
しかしながら、当時の若かりし日の俺にはそういう余裕がまったくなかった。はっきり言って、未熟者だった。
過ぎ去ったことはもうどうしようもない。
それはそれとして反省するだけだ。それを今後に活かすしかない。
さて、そういうわけで、脳の鍛え方は筋肉の鍛え方と同じなのだ。脳は筋肉なのである。鍛えれば、鍛えるほど発達する。
ところで、最近、私は、本の執筆が終わって少しのんびりした。だから、「千の風になって」を歌えるかと、誰もいない公園までいって、1人で練習している。
その途中、周りに人がいないときは、そこでも「歌いながら」歩くようにしている。ちょうど、サッカー少年がグランドまでボールをリフティングしながら通ったり、ドリブルしながら歩いているようなものだ。
私は近年、歌のメロディーはすぐ覚えれるが、歌の歌詞がまったく覚えられない。これでもう何十年も過ぎた。
だから、「千の風になって」を覚えれないのではないか?と思っていたのだ。紙に歌詞をコピーして、それを読みながら歌うしかないだろうと思っていた。
ところが、そうやって、毎回、歌いながら歩いたり、1人で誰もいない場で空に向かって歌っていると、いまや完全に全部すらすら出てくるようになったのだ。いまは、ほぼ完全に歌詞を覚えることが出来たのだ。
これは、まさにサッカー少年がボールリフティングでやったことと同じだった。
今日は、リフティング。3回。明日は、5回。明後日は、6回。こうやって徐々に回数を増やす。すると、たまに10回できたりする。そして、今度やると、たったの3回。こうやって毎日毎日やっていると、そのうち、だいたい10回超えるようになる。
すると、今度は、たまに20回できたりする。こうして、こういうことを何ヶ月か繰り返すと、いつしか100回できるようになる。
まさに、こういう感じだった。
私は、最初の一小節、次は2小節。そこまで覚えたら、こんどは、3小節まで。そして、今度は一番の歌詞。1番の歌詞を覚えたら、今度は2番。こういうふうに徐々に徐々に歌詞の長さを伸ばしていく。
ただただそれを毎回繰り返す。毎日、同じように、風呂でも歌ってみる。こうして、ついに全曲をそらで歌えるようになる。
これが、私の言っている意味の「パブロフの犬」である。
人は、能力を開発するときは、パブロフの犬にならなければいけない。
とまあ、そういう実に単純なことなんですナ。