みなさん、こんにちは。
寝ても覚めてもキャンディーズ、キャンディーズ。今日も元気にキャンディーズで行ってみよう。
昨年の暮れからここ数ヶ月、スーさんの2011年4月22日の逝去の追悼
と2011年の3月11日の東日本大震災の追悼
をしよう。そう思って、だいぶ早めにスーさんの葬式の場面を見ていただけだったのだ。
この葬式のYouTube動画を昨年の暮れあたりから見たわけだ。すると、それからキャンディーズのYouTubeが張り付いてきた。
そして、これを昨年のクリスマスイヴにメモした。
テーマは単に、日本式のお辞儀と韓国式のお辞儀コンスは全く違うよという指摘のためだった。
ところで、そこでいくつか1970年代のキャンディーズを見てからというもの、俺の頭にミキさんの顔が離れなくなってしまった。そして、なぜか懐かしい気持ちがこみ上げてきたのだ。
それで、どうしてかなあ、という思いで、「寝ても覚めてもキャンディーズ、キャンディーズ。今日も元気にキャンディーズで行ってみよう。」とはじめて、キャンディーズのことを調べ始めたわけだ。
そうやっていると、2月の上旬に出版社から本執筆の依頼が来た。これが、今回の本の執筆依頼だった。
それから、キャンディーズの曲を聴きながら、本を中林の海で書き始めた。
そして、無事、2021年の3月11日の追悼もスーさんの追悼も終えて、本の書き出しに集中し、かなり長時間座っていた時に、脳梗塞症状が出たわけだ。
幸い、不幸中の幸いで、一過性の脳梗塞ですんだ。それで、また再発のリスクを下げながら、執筆し始めたというわけだ。そして、締切の5月31日についになんとか間に合った。
ところが、出版社はこちらの事情を推測できる能力や知力や人間性を持っていなかった。すべてあちら側だけの利便を図ってきた。契約はウィンウィンだ。ギブアンドテイク。こっちにも利便がなければ、契約は成立できない。
それなら、ボランティアと同じだ。ボランティアで俺はずっと科学研究を行ってきた。ブログもそうだ。YouTubeもすべてボランティア。
だから、pdf公開に切り替えたというわけだ。
しかしながら、それにはそれなりのリスクがかかる。
そこで、もし論文ないし本として、そういうリスクがあるのなら、せめて俺のこれまでの人生の展開を知りたい。
そういう思いで、もう一度、俺とミキさんと妻の人生を並べて振り返ったわけだ。これができるのは、ここまでキャンディーズのすべてを理解したからこそ出来たわけだ。つい最近までなら、単なる一ファンでしかない。
そして、何より、あの衝撃において他はない。
このときは、まだ分魂の話まで理解しきれていなかったと思う。
その後、当時のキャンディーズの諸事情、俺の諸事情、妻の諸事情を比較したのだ。すると、明らかに、俺とミキさんは、何から何までピッタリの条件を持って生まれていたのだ。
そして、俺が、大学、大学院、企業と物理学者として生き始めた途端に、今度は妻と何から何までピッタリの条件を持っている状態へ成長したのだ。
その境目が、1977年解散宣言〜1978年解散だった。
ここが俺とミキさんのお別れの年だったというわけだ。1976年解散だったら、ぴったりだった。
俺が知っていたキャンディーズはお姉さん3人だった。なぜなら俺はまだ中学生だ。1年では、150cmにも満たない小柄だな男の子だった。
それが、中学時代に168cmになり、高校で172cmにはなっていた。高卒の頃には、ひげも生やせるほどの大人になっていたのだ。
実際、ひげの井口は、俺が20歳の誕生日、
つまり、1977年10月13日から始めたことなのだ。
このひげこそ、サッカーから物理学者への道への意思表明だったというわけだ。
つまり、ちょうどミキさんたちが解散宣言したその年の10月から俺は髭をはやし、本格的に物理学者を目指したのだ。
だから、もしその前にキャンディーズのミキさんと出会っていれば、きっとサッカー選手の道は残し、実家を継いだことは100%間違いなかったわけだ。
その時の俺の個性とミキさんの個性と、それぞれの家庭の事情は、すべて完璧にマッチしていた。
同様に、妻とずっと後の1988年に出会った時の、俺と妻、俺の家庭と妻の家庭の事情は、すべて完璧にマッチしていた。
あとは、本人同士の性格の相性でしかない。妻と俺は完璧な相性だった。
それを妻が独身時代に持っていた、他の人を占ってもよく当たる星占いを使ってみたら、やっぱり運命の人の最高の相性だった。
そして、今回、たまたま試しにミキさんと俺のを占ったところ、やっぱり運命の人の最高の相性だった。まさかだったのだ。
つまり、生真面目で心配性のミキさんには、精神的にタフな俺のような男がぴったりだったのだ。その点でも、妻と俺の関係と同じだ。
だから、本当に、家庭は作れたと思うわけだ。会いさえすれば。
俺の叔母の学校とミキさんの出身校は似たようなカソリックのミッション高だ。礼拝したければ、いつでもそこでできる。大学を出て歌やピアノの先生になれば、そこで教えることだって出来た。
芸能界にどっぷり浸かる必要ない。すべてがピッタリだったと思うわけだ。
逆に、その頃の俺にはサッカーしかなかった。
もし俺がミキさんと出逢えば、おそらく中学か物理の教師を目指しただろう。
理科大だ。理科大は研究者養成の大学ではなかった。学校の科学の教師を作る大学だ。
だから、ミキさんがミッション高の先生、俺が公立校の物理の先生、そしてサッカー部の監督。こんな道が本当にあり得たのだ。
実際、数年前に44年ぶりで高校のサッカー部や同級生と同窓会のようなものをしたら、全員が、お前が日本代表になっていればナア。と言われる始末だった。
結果的に、俺が物理学者を目指したために、親と兄弟に不幸や迷惑をかけてしまったわけだ。同級生の夢も潰したのかもしれない。なぜなら、俺は、ずっと博士とるまではとにかく音信不通でノータッチだ。俺のことは忘れてくれという立場を通したからだ。
山梨のサッカー界にも迷惑かけたのかもしれない。
いままでは、理論物理学者になってそれで良かったと思ったわけだ。それは、それしか現実的な恋愛がなかったし、これしかないと思っていたからだ。
これで良いのだと思ってきたわけだ。
ところが、みなをもっと幸せにし、リッチにできた道もあったかもしれないといま分かったというわけだ。
ひょっとしたら、ミキさんだってもっと幸せになれたかもしれないわけだ。それはご本人の問題だが。彼女の状況を見る限りではそう思う。彼女は、山梨のミッション系高の先生になったとしても良かったのだ。むろん、ふつうの主婦のままでも良かった。
彼女も、キャンディーズの延長で、何かを失ったのだと思う。それを受け止めて今日まで生きてきたのだと思う。スーさんだってそうだ。ランさんだってそうだ。
人は置かれた場所で咲かなければならない。
しかし、うまく咲ける場所は限られている。それに出会うことが難しいのだ。
もし俺が1977年にミキさんと出会っていたら、あるいは、そのちょっと前に出会っていれば、かなり展開は変わったと思う。我が家の家系の方で失うものはなにもない。みんなが円満になる道でもあった。
一方、1988年に俺が妻と出会って、失うものは何もなかった。みなが円満になる道だった。
つまり、1977年と1988年の俺には実際に2つの道が用意されていたのだと思う。
しかし、1977年は、キャンディーズの1年の延長で、消えた。
前者は、みんなが宝石屋の生活として金銭的に豊かな生活を送れる道だった。後者は、みんなが貧乏な理論物理学者生活を強いられる道だった。
俺から見れば、どっちでも良かったのだが、後者の道に切り替わってしまったことで、家族も含めて多くの人たちに迷惑をかけてしまったのかもしれないなと思う今日このごろなんですナ。
昔の侍なら、腹切ですナ。すまん、許せ!というやつだ。
こんなことがあるのか?
これが、今回の「寝ても覚めてもキャンディーズ、キャンディーズ。今日も元気にキャンディーズで行ってみよう。」の結末だ。
したがって、今後は、ここでキャンディーズのことは書くことはないだろう。特別な何かのケースを除いて。
すべてが分かってしまったのだ。
これが、本当のチャンスを逃したということなら、ほんと親父とお袋と兄弟に申し訳ないという気持ちしかない。廃業させる必要はなかったのだ。
親父に脳梗塞を起こさせることもなかったし、弟たちに苦労させることもなかったし、息子たちにもっと良い教育を与えてやれたと思う。
ごめんな。すまん。
ここ最近は、こういう気持ちが自然に湧き上がってくる。こんなことははじめてだ。きっと死期が近いのかもな。
というわけで、俺はいつでも死の覚悟はできたから、そして、妻もそれなりに覚悟はできたようだ。だから、そのうち本は公開するつもりですよ。
では、みなさんの長生きを心より期待しています。