今回は、すべて俺個人の個人的妄想のメモの一種です。普通の人はスルーしてくださいヨ。
キャンディーズのYouTubeには、レコード、テレビ放送、ラジオ放送、ライブカーニバルの4種類からの映像がある。音源もさまざまだ。
レコードやテレビやラジオのものも貴重だ。
しかし、ライブはもっと貴重だと思う。
本当に1回くらいはキャンディーズのライブに行ったら良かったと思う。今思えば、心底そう思う。
だいたい以下のような流れのようだ。
◎1973年9月1日に「あなたに夢中」でレコードデビュー
◎1974年3月17日代々木、山野ホールで800人コンサート
◎1974年12月24日のクリスマスコンサート
◎1975年2月21日に「年下の男の子」で初のメジャーヒット
◎1975年8月26日に日劇ウェスタンカーニバル
◎1975年10月19日 キャンディーズ10000人カーニバル/蔵前国技館8600人
◎1976年3月1日「春一番」メジャーヒット
◎1976年3月29日に日劇キャンディーズショー
◎1976年10月11日キャンディーズ10000人カーニバルVol2/蔵前国技館13000人
◎1977年7月17日キャンディーズサマー・ジャック77”初日/日比谷野外音楽堂 解散宣言
◎1978年4月4日キャンディーズファイナルカーニバル/後楽園球場55000人
この中で、もし俺が行けたとしたら、と考えられるものは、
1976年10月11日キャンディーズ10000人カーニバルVol2/蔵前国技館13000人
以降だっただろう。それまでのは高校生で山梨甲府にいた。ちょうど受験前だった。
そして、
1977年7月17日キャンディーズサマー・ジャック77”初日/日比谷野外音楽堂 解散宣言
1978年4月4日キャンディーズファイナルカーニバル/後楽園球場55000人
には行けただろう。なぜなら、当時俺は東部野田線界隈の野田と運河の間あたりに住んでいたからだ。常磐線使えばすぐに東京へ行けた。実際、東池袋のサンシャイン60には一度プラネタリウムでデートしたことがあった。すぐフラれたが。
しかし、この頃は理科大理工サッカー部になっていた。1年生サッカー部員はいろいろやることがあった。だから、1976年の1万人コンサートは行くのは無理だっただろう。実際、今思い出した。とてつもない暑い夏合宿があった。たぶん、この時期は、秋のリーグ戦のシーズンだっただろう。
1977年7月17日が初日のサマージャックのときは、残念だったようだ。全くその時は気にもしなかったが。
ちょうどその頃、理大理工のセミナーハウスにノーベル物理学賞受賞の唯一の生き残りだった朝永振一郎先生が来る予定だった。
1977年7月19日から21日まで合宿セミナーだ。
「科学と私」
というものだった。たしか、1、2年生が全員参加だったか。大半の学生が参加したような記憶がある。
だから、理科大理工生の俺らはこっちの方に釘付けだった。
もうちょっとずれていれば、ミキさんに会えたのに。すれすれだったんだな。
今思い出した。最近は比較的すっと昔の細かいことが思い出せるようになった。これもキャンディーズのおかげ。この後の8月はサッカー部の関西遠征があったんだ。そこで奈良の天理大、京都の大谷高校だったかな、高校とやった。天理には12−1で負けたが、この試合の最初の得点が、俺のキックオフドリブル中央突破全員抜きゴール。開始1分。伝説のゴール。高校には4−1で負けたか、2−1だったか。とにかく、京都が関東より暑すぎてまったく動けず負けた。
だから、もし俺がキャンディーズを見に行くとしたら、あの解散宣言のやつしかありえなかったんだと思う。
今思えば、俺は朝永振一郎先生ではなく、ミキさんに会うべきだった。
実際、俺は先生の講演前にずっとチャンスを伺っていた。
そして先生が一人になったときに、質問をしたんだ。正確な内容は忘れたが、
「あの〜〜、先生ちょっと物理学について質問があるんですが、よろしいでしょうか?」
しかし、先生はその時は次の講演の方に頭がいっぱいの様子。それで、
「はい、良いけど。いまは講演前なので、あとでまた質問してくれませんか」
というようなお答えだった。
しかし、もうそのチャンスは二度と生まれなかった。
俺は、この質問を何ヶ月も前からずっと考えて用意していたんだな。そして、その質問をするために、サッカー部の練習を休んで、このセミナーに参加した。しかも週二回の家庭教師のアルバイトをして金をためてナ。
というわけで、ノーアンサーで終わったわけだ。
この時、朝永よりミキを優先していれば、
きっと人生変わったナ。その可能性が高い。きっとサッカーの方へ戻ったはずだ。
まだ本当に物理学者になろうか決心する前だ。サッカーもやってバリバリの現役だった。この頃だ。マラドーナより前に千葉大グランドで千葉商大相手に5人抜き得点したのは。
きっと俺のことだ。
ミキちゃんが1人になるチャンスをどこかで待っていたはずだ。
そして、きっと
「あの、サインください。写真一緒に撮って良いですか。握手してください。」
そんなことを言ったはずだ。
心根のやさしいミキさんだ。きっとミキさんは、してくれただろう。
そして、俺はきっと
「僕、サッカー選手なんです」
なんて言っただろう。すると、ミキさんは
「サッカー、頑張ってくださいね」
なんて言っただろう。
俺は俄然サッカーに打ち込んだだろう。
しかし、俺は、朝永先生が教えてくれないんだったら、自分で解こうと思ったんだ。
それで、本気で理論物理学者になる人生を歩み始めたというわけだ。
これが、分水嶺か?
人間、その大事な分水嶺がどれなのか、どこがそうなのかわからない。
あとになって検証しない限り分からなんだな。
これが人生というものだ。
いやはや、。。。
大学時代あれほど時間があって、そこそこ金もあって、なんでキャンディーズのコンサートのことを記憶いしていないのか?
と思ってみたら、朝永振一郎先生の方に気が向いていたんですナ。
そして、気がついたら、キャンディーズは解散していた。
しかも唯一俺が行けたはずなのは、あの解散宣言のやつだ。
「普通の女の子に戻りたい」
あれで解散したんだ。あれにはいけた。
そこで、ミキさんと出逢えば、もうミキさんは解散して、普通の女に戻ったんだ。
きっと、デートのチャンスもあっただろう。
なにぶん、こっちはまだバリバリの大学サッカー部員だ。そして、その頃の俺の顔はこんな感じだったんだ。
しかも、俺の声は、ミキさんのバリトン歌手の父さんと全く同じバリトンの美声だったわけだ。
きっと俺がミキさんに「ミキさ〜〜ん」て呼べば、好感を持ってくれたはずだ(ったかもしれない)。
きっとサッカーの試合に呼んで、ミキさんが見に来てくれた可能性もあるな(あったかもしれない)。
何もかもが、いま思えば、朝永に行くんじゃなかったナア。
しかしながら、当時の俺はいまの俺ではなかった。
あの1月17日のコンサートて行ってたとしても、ミキさんにアタックするんじゃなく、ランさんかスーさんの方へ行ったかもしれないナ。
あるいは、コンサートへ行ったは良いが、ピンクレディーの方だったりしてナ。
ほんと人生は起こってみないとわからない。
とまあ、すべて俺の個人的妄想です。