みなさん、こんにちは。
今日4月5日は私の父の命日。昨年の今日92歳で命を終えた。
去年の今日その知らせを受けて、急遽翌日の4月6日に自動車で高速を乗り継いで山梨の石和まで行ったのだった。
ちょうど新型コロナが流行り始めた時期で、危うく、父の遺体は病院内で処理されて骨壷になって出てくるところだった。
幸い、父の病院内にも山梨県第一号の患者が出たが、それは最上階だけで、我が父のいた場所は2階だったために問題なく、家族葬を終えることが出来た。
そこで、私の父が生前山梨県の水晶宝飾関係の理事長としてどんなことをしたのか?
これについて、私の記憶の中にある形で残っているものをメモしておこう。
これについては、だいぶ前に私の記憶が残っているうちにと、我が家のファミリービジネスという形でメモした。以下のものである。
おそらく、我が井口家では、代々宝石加工業を営んでいたが、その中で私が初孫として誕生し、私の次の弟と4歳離れていた。他の家族に生まれたいとこたちは、私の弟より年下でみな子どもだった。そのため、当時我が家や叔父や祖父の営む宝石業を理解できる年齢には達していなかった。だから、こうして、その当時に私の父母やおじさんやおばさん、祖母から聞き知った噂話や伝説を記憶しているのは、唯一私しかいなかったのだ。
私は当時すでに中高生になっていたため、父の仕事の手伝いをしたり、垣間見たり、話し相手になったり、そういう時間がわずかながらあった。
当時、父実は業界のドンであり、宝石加工業組合、貴石画組合、など3つか4つの組合の会長や理事長をしていた。その時代にあって、旧制甲府一高の出で、旧制松本高校まで行った地元の経営者などどこにもいなかった。だから、知識や弁舌やアイデアの立つ我が父が甲府の業界のリーダーになるのは当然であっただろう。
しかしながら、掃き溜めに鶴。父の優れたアイデアや進歩的アイデアが、すんなりと業界の同業他社の中小零細企業の経営者たちに理解されることはなかったと聞く。いつも父は私に愚痴をこぼした。頭が悪すぎて、いつも邪魔ばかりすると。
特に事あるたびに邪魔したのが、初代英雅堂の社長だった。この社長は、父が組合理事長として新しい事業を考え出し、それを企画し始めると、決まって仲間を組んで、用意周到に反対したのだった。
その当時、私の父が立案したものは、
・回転ろくろ式研磨機の利用普及
・歯科医が使うエアタービン研磨の利用普及
・めのうの着色技術の開発
・昇仙峡に宝石販売店を作る
・昇仙峡へ観光バスを引き込む
・昇仙峡に製作実演販売のある宝石博物館「宝石園」作る
・ダイヤモンドカッターの利用
・県立山梨宝石美術専門学校設立
・公害処理設備を持つ宝石企業団地の建設
・企業団地へ観光バスを引き込む
・石和バイパス沿いにレストランダイヤモンド建設
だいたいこんなものだったと思う。私は小中高とスポーツやクラブ活動をしながら、我が家の発展を横目で眺める程度だった。
大きな流れは、高度成長期と私の成長期が見事に一致したということだろう。
私が生まれた時は、私は4畳半に隣に工場というあばら家に生まれた。が、出産の場所がなく、近所の富士アイスという大きな店の大家さんの一室を借りてお産婆さんによって生まれた。その4畳半の隣には父と何人かの仲間の従業員が1日10数時間も回転式ろくろを回して宝石を研磨していたのだった。
それがすぐに手狭になり、高畑町に引っ越した。そこで、従業員が10数人になり、日夜今度は歯医者が使うエアドリルでスカラベの製作を行った。
これは、ユダヤ商人がアラブ人に売るために受注したものだった。
まあ、ユダヤ人はけっして自分の手を汚すことはしない。そういう人種だ。同業他社に企画を持ち上げ、過当競争させて価格を引き下げ、赤字覚悟になったところで商談成立させ、それで今度は敵対国人のアラブ人に高額で売りさばいて儲けた。
日本人は仕事がほしければどんどん過当競争で値を下げる。日本人はとにかく赤字であろうが仕事がほしい。だからしゃにむにがんばる。しかし、最後にはやっていけなくなる。そうなって我が家の父はそのビジネスから撤退した。
そこで考え出されたのが、細かい宝石の破片の再利用だ。それまでは、宝石めのうの岩石から良いところだけ切り出して、そこをくりぬいてその中から指輪につける石を切り出して磨きあげた。しかしこれではたくさんの周りのあまった破片がクズになる。
私が小学生中学生の頃には、家の空き地という空き地にそういうクズのさざれ石のやまがあった。そこをサンダルで走ったりすると、すぐに足裏が切れた。そういう危険なものでしかなかった。
それを再利用するには、さらに細かく砕いて粉状にし、それを額縁の絵の背景の雲や水の流れや模様に変える。こういうことを業界の人達、特に大森さんだったかな(?)というおじさんが考えた。そこで、これを業界全体に広めようと、我が家の父が我が家でも始めたのだ。
そうして、いわゆる貴石画が誕生した。宝石画も誕生した。
初期のものは、まだ原始的なものだった。大きな石の部分でカニの胴体にして、まわりの腕をさざれ石の粉で書く。そんなものだったと思う。
ところが、当時(たぶんその後無くなったようだが)県立研磨指導所というものがあった。父は父の兄と弟(私のおじさんたち)や祖父といっしょに研磨指導所で、あたらしい研磨技術の開発に挑戦していた。
そこで、発見したのが、石和の笛吹川の石がどうして丸くなっているのかという疑問に対する答えの発見だった。そこで、川底を流れる石は丸くなるという原理。いわゆるローリング・ストーンの原理を発見したのだった。それで、人工的に常に川底を流れる状態を作れということで、回転ドラムの中に宝石と研磨剤を入れて、原石が磨かれるかどうか研究していったのだ。
これが回転ドラム式研磨、バレル研磨である。これは、1960年代から70年代の山梨県甲府市で誕生したものだった。
当時、特許申請で県と業界で揉めて、結局特許をとれなかった。とらなかった。その結果、後にもっと大きなバレル研磨機の開発の時に、共同開発した大阪の企業に全部特許がネコソギされたのだった。
かんたんに言えば、いまの横型や斜め型の回転ドラム型洗濯機のようなものだ。洗濯機の原理も、原理は全く同じである。研磨剤(洗剤)と研磨するもの(洗うもの)を水に入れてローリング・ストーン状態を維持する。あとは、その量と時間で鮮度が決まる。
父が我が家にバレル研磨機を20台ほど設置した時、24時間ずっとモーターを回していた。予定時間が来て研磨が終わり、それをジャックナイフ式スイッチを切って止める。その時、たまに私が頼まれて、工場の壁上部にあるジャックナイフスイッチを切る。バチン、といった瞬間、一瞬電撃のような放電が走った。この映像はいまだに覚えている。今思えば、高電圧が出ていて、触れば感電死だった。これをニコラ・テスラが興味持ったわけだ。
研磨時間をたまに従業員が間違える。すると、旧陸軍の将校候補生だった父が、烈火のごとく怒る。そこまで怒らなくても良いんじゃないかと横目で眺めながら、私は学校へ通ったものだ。しかし、研磨時間を間違えたら、結局、それまでに何日も何日もずっと電気つけた状態でやってきた研磨と全部の商品がパーになる。やり直しになる。父が正しかった。
私は幾度となくそういう場面を見たものだ。その担当係が、私の中学時代の野球部のチームメートの同級生の父だったから、結構心苦しかったのを覚えている。
こうして、バレル研磨でさざれ石が磨けるようになると、今度は大中小さまざまの宝石を貴石画に貼り付けることが可能になった。徐々にボンド剤の性能も良くなった。大中小さまざまの宝石を画材としてより精密な絵画を作ることができるようになった。
しまいには、先に絵をデザインし、モザイクやジグソーパズルにように、複雑な色や形の宝石をカットし、そのカットされた複雑な図形の宝石を割らずに全面を磨くことができるようになった。そうやって出来てきたものが、宝石画である。
この時期に、我が家はさらに手狭になり、今度は青葉町の甲府商業の第二グランドの真横にある部屋数20ある鉄筋2階建ての900ツボの敷地のどこかの会社の社宅だった家に引っ越した。ちょうど私が小6のころだった。だから、1年間は私が学区外の国母小へ通い続けたのだった。
当時は今と違って、我が家と南甲府駅の間に田んぼしかなかった。晴の今頃には一面れんげ草だった。駅から我が家の井口製作所の看板が見えた。私は南中学の開始のチャイムが鳴るまで家で寝ていて、チャイムが鳴ったら、途端に起きて、学校の支度をして、田んぼを突っ走り、授業の開始5分内に着席という毎日だった。この家ももういまは跡形もない。田んぼも住宅で埋め尽くされた。
そして、その象徴が、私が中高生のころから計画立案し始めた、宝石学校の建設と宝石企業団地の設立と昇仙峡の宝石園の建設とレストランダイヤモンドの建設だった。
当時、公害問題が大問題になった時期だ。宝石研磨では六価クロムを使っていた。これがもろ公害源だった。我が家にはコンクリートの袋のようなものに六価クロムが入った袋が山積みだった。そして、磨いた廃液はそのまま川に流していた。当時は宝石加工業のすべての企業でそうしていた。それ以外に方法がなかった。
それで、父が、企業が一箇所に集まり、そこで化学的に廃液処理できる施設を持った企業団地を作り、みんなでそこへ工場だけ移転しよう。これが私の父の計画だった。
しかしながら、真っ先に反対したのが、英雅堂の社長だった。いつもこの社長が他の会社社長たちを焚き付けてみんなでそんな事ができるわけ無いと反対したのだった。いつも父が分からん人のことを愚痴こぼしていたものだ。
しかし業界人に話し合いに話し合いを重ねてもわからないから、結局、父が単独で理事長権限で実行に移した。直に計画書を作り、県職員と掛け合って、建設にこぎつけ、長い時間かけて(おそらく10年ほどかけて)やっと実現したのだった。そうやって施設ができた。
ところが、その宝石企業団地に入所してくれない。我が家しか入らない。そこで、また英雅堂が邪魔したのだった。入所の邪魔をした。そこで、一社一社話し合って、徐々に入所してくるようになった。そうして、英雅堂は入らないのかと思って場所を確保し開けとくと、一番最後に入ってきた。
一方、宝石学校の設立では、うちわで揉めたようだ。私の父は山梨大学の中に、宝石学部を設立する計画だった。これに長男の叔父さんが反対した。専門学校で良いという意見だった。大学にすると、業界に残ってくれなくなることを恐れたようだ。結局、折衷案で、県立の宝石学校でよいということになった。そうやって出来たものが、県立宝石美術専門学校だった。
当然ながら、その設立には、我が家のかけらの記載もない。県のHPには、県が作り出したように書かれている。しかし、実際には、父が立案した最初から最後まで、反対に次ぐ反対をしたのが県庁だった。
県が県内の地場産業の邪魔をする。これが山梨県の伝統だ。企業団地の場合も邪魔しまくった。事実、最初の計画では、観光バスの乗り込みOKで企画が通ったが、出来てから、県が法律を変えて、その地域での商行為を禁じた。その理屈がすごかった。工業団地の区域だから、観光バスの乗り込みは不可。いまは、シャトレーゼであろうが、英雅堂であろうが、なんであろうが、工場へ観光バスが入ることが許可されている。
要は、天下り先とか、県庁の職員へのリベート(キックバック)が欲しかったのだろう。が、陸軍士官予備役の父はそういうのが大嫌いだったから、県庁職員から毛嫌いされたのだろう。
しかしながら、この企業団地はいまは無くなって久しい。この事情は私はずっと県外にいたから知らない。
昇仙峡に宝石園を作ったのも父だった。県内初の宝石博物館だった。これは本当に父の自慢だった。私は何度もここへ案内された。巨大なアンモナイトや巨大な水晶の結晶があった。入り口は洞窟式だった。
ここもその後オイルショックで景気が悪くなり、バブル崩壊で最悪になった頃、真っ先に人手に渡り、結局閉鎖となった。宝石業界は一番景気に左右される業界である。
おそらく、父がもっとも輝いていた時代、全盛期はこの頃だったと思う。
この頃、第二次田中角栄政権の頃、たぶん1974,5年頃、田中角栄首相が、おそらく山梨甲府出身の盟友金丸信の招きで山梨に来たことがあった。この金丸信の弟さんは、我が甲府南校サッカー部の後援会会長だった。それで、いつもOB戦や初蹴りがあると、飲み会に来てくれて、いっしょに酒を飲んだ記憶がある。
その現役の首相が甲府訪問の時、甲府の地場産業の一番の弁舌の立つ理事長ということで、宝石業界を代表して私の父が会ったのだった。その時の写真は我が家の家宝のようなもので、私の母が大きく引き伸ばして額縁に入れていた。それがこれだ。


昔の甲府一高・松本高校のトップは柔道黒帯、剣道ニ段、水泳野球サッカー万能囲碁将棋ニ段の腕前だった。私は腕相撲でついに一度も父に勝てなかった。ゴルフはシングルだった。ただ足は速くなかった。足の速いのは母の方だった。おそらく、我が父の人生最大のイベントがこれだったのかもしれない。この時、当時秘書だった小沢一郎より、私の父の方がずっと貫禄があっただろう。たぶん、この時が1974年なら、私が17歳の頃だから、父は47歳だった。
1970年代後半、ちょうど私が高校生の頃、父が竹ひごで直径50cmほどのダイヤモンドのブリリアントカットの模型を見せてくれた。ダイヤの指輪の定番のカットである。
父がこれを竹ひごで作った。これを建設会社の人にみせて、こういうフレームの建築物を建てたいと立案したのだ。まずは県内の企業をあたった。しかし当社では不可能。それで、最終的には東京の会社に当たった。そうしたら、できるかどうかわからないが、面白いから作ってみようと立ち上がった会社があった。
そうやってできたものが、レストランダイヤモンドだった。
これも父の自慢だった。私は何度かここへ連れて行かれた。一度、UFOのようなその中に入り、昼めしにビーフカレーをごちそうになった。
印象としては小粒なパビリオンだった。
おそらく、父は我が家で一度京都の旅館に泊まり、大阪万国博覧会に行った時に見た、あの巨大なフラー建築のイメージが頭にあったのだろう。万博は父にも少なからずの影響を与えたのだと思う。
とにかく、私はこの建物のできる前の竹ひごの段階から見ていた。
父が
「建設会社の役員はそんなものが安定に立つはずがないというが、見てみろ、こうやって強く押してもこれだけ強い。絶対に立つ。」
と言ったのを思い出す。そして実際に立った。
ところが、このレストランの真横に宝石貴石画の販売店があり、そこに我が家と同業他社が入る予定だったが、そこへの入居も最初から最後まで反対していたあの英雅堂の社長が出店してきたのだった。
とにかく、私の知る英雅堂はいまの英雅堂ではなかった。とにかく父を目の敵にして、理事長である父のやることすべてにイチャモンを付けて反対する。しかし、ものが出来たら、漁夫の利を狙って二番煎じで奪い取る。そういう悪代官や越前屋のようなイメージだった。当時は。今は知らないがネ。いまや英雅堂はすべてを支配しているようだ。
しかしながら、このダイヤモンドも不景気の波の中私の知らないうちに取り壊されてしまったようだ。
これが事実だったことは、英雅堂のHPにちゃんと記載がある。そこには、自分が開店したかのように書かれている。これだ。


英雅堂の社長は、結局我が父が敷いたレールに一番最後にやってきて、いつも最後に総取りしていった。そういう感じですナ。
こうして、我が家は順調に成長してきたわけだが、私が1980年に大阪大学の大学院に入学し、2年ほどしたころ、私が博士課程に入るか入らないかの頃、54歳で群馬へ出張中に脳梗塞になった。それで、右半身が動かないまま帰宅した。
以来、我が家は母だけになり、私は中途半端で終れないから、父がそのままやれと言ってくれ、それを継続することにした。母は次男三男はまだ無理だから、徐々に廃業する方向で父の看病だけに集中することになった。父は1年寝たきりでリハビリ生活になった。
こうして、山梨の業界を一世風靡した父の作り上げた井口製作所は終焉し、その家を売ったお金で石和の小さな家を買い、そこを療養の居にして余生を生きた。
数年前、私が44年ぶりで高校のサッカー部の同窓会に参加したことがあった。その時の監督の先生の目には、井口の家が潰れたと噂になったということだった。しかし私はすでに基本が県外になっていたから、山梨の人たちとの付き合いや縁が切れていた。こうして、40数年の間にその記憶もまったく思い出せない状態でいたのだった。
ところが、昨年の暮れからキャンディーズを知り、それにハマって、キャンディーズのことを毎日毎日聞いているうちに、70年代のことを調べるようになり、そうしていくうちにますます昔の情景や状況が明確に思い出せるようになったのだった。実に不思議だ。ひょっとしたら、これも逆に私もまた死に近いということの兆候かもしれない。この辺は今後自分で注目していくしかないだろう。
とまあ、今回は今日父の一回忌、命日なので、こういうことをメモするつもりでいた。だいぶ前から。あしからず。
こうして、いま甲府へ行くと、業界はあれほど父に歯向かい邪魔しまくった英雅堂が栄華の極みにいるようだ。実に興味に深い現象だ。いったい何が起こった?今後暇があれば、これを調べていきたいとも思う。