みなさん、こんにちは。
今回は個人的記憶。追悼である。
2日ほど前、岐阜大学の友人から、同じ岐阜大の工学部物理の教授をしていた青木正人教授が、膵臓がんで2週間ほど前にお亡くなりになられた、との連絡が入った。
これが本当ではない、人違いであると信じたいところだが、間違うはずもないので、これは事実であるに違いない。
青木正人先生は、私が大阪大学基礎工学部の物性系の大学院生だった頃の後輩である。彼は、東京理科大学理工出身でそこでも私の2歳後輩で、卒研も私と同じ物性理論研の小口先生の所出身だったと思う。そこから、私のように阪大の大学院へ入った理大理工の秀才だった。たしか千葉県出身だったと思う。その時には、もうひとりいっしょに理科大理工から基礎工へやってきた。名前をど忘れしたが。
(今回のこれも、昨年末まではまったく思い出せない状態だった。この3ヶ月間毎日のようにキャンディーズの曲を聴いて徐々に昔のことが思い出せるようになった。その結果、こうしてすんなり思い出せるようになった。)
当時、理科大から国立大学の大学院に入ることは極めて難しく、相当に学部時代に勉強しないと不可能だった。というのも、理科大理工のカリキュラムは基本的には高校中学の理科教員を目指す人を対象にしていたからだ。研究者になろうという学生は少なかった。
しかしながら、高校時代までサッカーしか知らなかった私にはこれが幸いした。あまりに専門的だったらついていけなかっただろう。ちょうどよかったのである。
当時、理科大理工は1年から2年への進級が一番難しく、4割〜5割は留年という伝統があった。その時には、私はギリギリで進級できた程度で、18か20科目ほどあったうちで、大半が可、優は6つほどしかなかった。むろん、体育とかだ。そこで、教授にこの成績で大学院へ入れるかと聞いたところ、まず不可能と死刑宣告されたのだ。
まだ2年次は踏ん切りできず、だらだらとサッカー部に所属していた。練習はほとんど参加できなかったが、試合だけはスーパーサブで出場し、逆転勝ち。あるいは、練習しないのにレギュラーという感じだった。
そこで、2年の夏休みに1ヶ月を読書にあて、サッカー選手から理論物理学者になっても大丈夫か、可能かを知るために、古今東西の本を100冊ほど読み漁った。私の結果は、イエス。可能だと判断した。この判断を後押ししたのが、長岡半太郎とランダウの伝記だった。あとこの時に読んだ「読書のしかた」の本が役立った。たしか角田忠信の「日本人の脳」を読んだのもこの頃だったと思う。これも非常に影響を受けた本だった。
そんなわけで、私は3年次にサッカーへ進むことをすっぱり止め、物理学者になることに決めた。そして3年になる前の春休みに一大決心し、スミルノフ教程を買った。だから、2年の終わった後の春休みにスミルノフ数学教程12巻をその2ヶ月内で読み切ろうと決心し、平均5時間睡眠で週14時間ほど勉強した。大学入試以上に勉強した。
結果的には、とても12巻までは読みきれなかったが、6巻までは読み切ることが出来た。たしか6巻がヒルベルト空間論だっただろうか。
その結果、3年時には秀才君たちの仲間入りができた。当時、サッカーを止めたので、とにかく最前列一番前で授業を受け、自分の視界には教授しか見えないようにした。そして、授業で必ず最低1回は質問するということを義務付けた。また、その頃から、すでに近眼になってきていた。勉強しすぎたせいだ。
その結果、理科大理工の秀才グループから、あいつ誰という感じになり、一目置かれる
存在に変わった。サッカー部時代はすぐに部活に行けるように、いつも最後尾にちょこんと座って、ほとんど居眠りしていた。だから、その頃には前方の3列目ほどにいた秀才君グループからは私の姿そのものが消えていた。
そのうち、彼らとよく議論したり一緒に行動するようになり、誰が誰だということが分かるようになった。そうして、3年次からいっしょに自主的に量子力学の輪講を始めたり、物理実験の相棒になったり、徐々に勉学の行動をともにするようになった。
そして最後の4年次の卒研時には、みな物性理論の研究室に入り、国立大の大学院を目指すことになった。特に私が強い意志でそういうことを主張し勉強していたから、それが他のメンバーたちにも波及していったというわけだ。
そして、この我々の世代から、14人ほど国立大の大学院合格者が誕生した。たしか理大理工から国立大大学院合格は10数年ぶりだとか教授がいっていたと思う。この時、私は阪大基礎工だったが、阪大理学部物理へ入ったのが、杉山君だった。いまは教授していると思う。
そんなわけで、その卒研教授は、理科大の学生がどの程度まで勉強し、どのくらいの成績をとる学生であれば、国立大の大学院へ入れるかの基準がわかったというわけだ。
そして、私が阪大基礎工の博士課程1年になった頃、青木くんがもうひとりといっしょに入ってきた。私の記憶が正しければそうだった。もう一人のほうは私と同じ研究室に来たが、青木君は望月和子助教授の研究室に入った。磁性理論の研究室だ。
当時は、まだ女性への風当たりが強く、望月先生は教授になるべき人だったが、終生助教授だった。
その研究室には青木くんの世代が3人ほどいて、いつも修論の息抜きに研究室で一人がギターを引いて、みんなで歌を唱っていた。そこで中を覗いてみると、一杯やりながらだったので、俺も入れてくれといっしょに宴会しながら息抜きをしていた。
当時、いっしょによく歌ったのが、最近はキャンディーズの初期の曲を提供していたとわかった森田公一さんとトップギャランの「青春時代」を替え歌にしたもので、「院生時代」という歌を唱った。
卒業までの半年で〜〜答えを出せというけれど〜〜
2人が暮らした〜〜年月を〜〜
なんで測れば〜〜いいのだろ〜〜
青春時代が〜〜夢なんて〜〜
あとから〜〜ほのぼの〜〜思うもの〜〜
青春時代の〜〜真ん中は〜〜道に迷っているばかり〜〜
のあれだ。
青春時代 / 森田公一とトップギャラン(1993 OA
これを、もじって、
卒業までの半年で〜〜答えを出せというけれど〜〜
◯◯研で暮らした〜〜年月を〜〜
なんで測れば〜〜いいのだろ〜〜
院生時代が〜〜夢なんて〜〜
あとから〜〜ほのぼの〜〜思うもの〜〜
院生時代の〜〜真ん中は〜〜道に迷っているばかり〜〜
というふうに変えて、大声で合唱していたわけだ。いうまでもなく、その中に青木君もいたわけだ。そして、また自分の研究室へ戻って研究する。とまあ、そんな日々だった。
青木君の下宿は、私の下宿の帰り道にあり、いつも二人でいっしょに帰り、途中、彼の下宿で一服したり、週末にはいっしょに酒のんだり、梅田に出向いて紀伊国屋へ行ったり、梅田の喫茶店で長い時間物理の議論したりといろいろ話しこんだりしたものだ。
阪大基礎工には、当時スポーツ好きの教授が何人かいて、特に実験系だったが、ソフトボール大会やボーリング大会やテニス大会や駅伝大会があった。テニスは理論の吉森教授がうまかった。ソフトボールは実験の那須助教授だったか、その研究室が強かった。
我が方は理論研で、歴代最下位争いをしていた。ところが、私がいた時代に、私が午後にみんなで練習しようと誘って、特訓をしたところ、そして試合では私がピッチャーをしたのだが、研究室開闢以来初の準優勝に輝いた事があった。後にも先にもその時だけ。卒研の4年生が良かった。一方、青木君のいた研究室は無残だった。
研究室対抗の駅伝大会が一度あったが、当時もいまのように大学の周り、待兼山一周5kmのコースを何周も走っていたので、当時、1度だけ篠山ABCマラソンに出場し、3時間52分程度だったから、私は先頭走者として出場した。現役の4年生がぶっちぎりで飛ばしたので、どこまでついていけるか、一緒に走った結果、一人脱落二人脱落として、なんと最後に残ったのが私ともうひとりだけになった。そこで、まだいけそうだったので、一気に加速したらついてこれないようだったので、トップになり、そのまま逃げ切って一位でフィニッシュ。最終的な順位では私は5位に入った。1位は私の研究室の先輩の蛯名さんだった。彼は高校時代陸上800mの選手だった。最近まで神戸大学の教授だった。しかしながら、他のメンバーが不甲斐なく、結果的には理論研は最下位争いだった。
こういうようなことを当時の阪大基礎工の物理ではやっていた。
だから、青木君もこの時代、院生時代は非常に楽しかったのではなかったかと思う。
1980年代の我が国はバブル全盛期であり、非常に明るかった。実際に世の中も明るかった。今のように、マスコミや野党が、いちいち人の箸の上げ下げまで文句を言うような時代ではなかった。
そういえば、一度、大学の坂道を下ったあたりに、エロ本の自動販売機があって、夜中にこっそり買いに行ったら、ばったり青木君とそこで出くわしたなんてことがあったな。ふたりともバツの悪い顔をして見合ったものだ。そこは、昼間は学生の通学道だから、真っ昼間にエロ本の自動販売機の前に立つのは難しい。女子学生もたくさん歩いているからだった。
今思えば、まさに青春時代の真ん中だったと思う。
青木正人君のご冥福を心からお祈りいたします。合掌。
ところで、彼が臨終の頃、ちょうど私自身が脳梗塞になったときだった。幸い私は一過性の脳梗塞でことなきをえた。何か不思議な体験があったという自覚はないが、血圧200超えの状態で、目にも足にも異常が来たのに、特に大事に至らずに済んだというのは、ひょっとしたら、彼のおかげだったのかもしれないと思う。そう思いたい今日このごろだ。ありがとう、青木君。