みなさん、こんにちは。
2つほど訃報があった。それをメモしておこう。
(あ)宅八郎さんご逝去
今年の夏こんなものをメモしていた。
ところが、そのちょっと前ごろ、すでにお亡くなりだったと言う。
我が国で、オタクという言葉を流行させる工作員として電通から仕込まれたのが、この宅八郎さんだったのではないだろうか?
これが契機になり、我が国に「ストーカー」という言葉が流行りだし、ストーカー規制法ができてしまった。
我々が若い頃、どこかで待ち伏せして、「ハンカチを落とす」とか、「ラブレターを渡す」とか。「デートに誘う」とか、こういう恋愛の定番が、今では「犯罪行為」になってしまった。
恋愛の正当な手続きを犯罪行為にしておきながら、方や「若者が結婚しない」とか、「童貞が増えた」とか、あい矛盾するとしか思えないんですナ。
まさに立憲民主党のような精神分裂的ダブルスタンダードである。
ご冥福をお祈りいたします。
私が富士通から理研に任期3年の基礎特研のポスドクだったころ、2年目だったか、有馬先生が理事長になった。1年目は、
小田稔先生だった。
有馬先生は、その頃から、科学技術庁と文部省の合併への布石として理事長になられたのだろうと思う。
その後、文部省大臣と科学技術庁長官になった。そして、すぐに、文部科学省が誕生。
有馬さんが、科学技術庁長官だったか、ちょうどその頃、私は三菱財団の自然科学研究助成を授与されることになったのだが、その授与式に大臣として2人のボディーガードに挟まれる形で、祝辞を読みにやってこられた。
そして、祝辞が終わり、すぐに退室される時、その帰りの際に、ちょうど列の間を通過中、列の横に座っていた私の肩を後ろから、
「頑張れよ」
と言って叩いたのだった。私はすぐに振り返って誰が叩いたのか確認したら、なんと有馬長官だったのである。
理研時代、私は理事長の有馬さんに直接拙著「三セクター分立の概念」を手渡したから、その時に顔を覚えていたらしい。
あるいは、その後、理研には「理事長ファンド」という理事長特権で、理事長だけの特別予算があり、これで理事長自らの判断で研究費を別ルートで渡すシステムがあったのだが、それを申請する面接の会場で、私が講演したのである。
このときは、タンパク質の折れ畳の研究で、タンパク質の物理的な模型を買いたいと思ったので、その予算をくれと申請したのだった。
すると、私の講演が終わった後、
「あんたは理論家だろ。あんたの研究にこんな予算要るのかいな?」
と言われて、おじゃんだった。
「ぼくの研究は理論ですが、理論作るためには実際の模型が必要なんですよ」
と言ったのだが、後の祭りだった。
有馬さんと言えば、その程度のことしか思い浮かばないな。
原子核理論の有馬ーIachelloモデルは一応勉強したことはあるが、確か、これでボナー賞をもらったのではなかったか?
「どうせ何をやったって食えないのだから学問をやろう.
就職の世話をしなくてよければいくらでも私のゼミに来なさい」
という朝永振一郎の言葉に導かれてきた人達で,有馬さんにきいたら汽車弁を買ってまず蓋の裏についたゴハン粒を食べる年代だそうである.
まさにそうだ。
どうせ新型コロナで食えないのだから、学問をやろう。未来のために。
戦後の闇市時代と比べたら、いまはまだまだ充分に幸せな時代だということを忘れるべきではないだろう。
120才まで生きるつもりだったようだが、残念にも30才早くなってしまったようだ。
あとはノーベル賞だけというところに行っていたのだが。
有馬朗人先生のご冥福を心よりお祈りいたします。合掌。