みなさん、こんにちは。
いやはや、あまりにいろいろのことが起こりすぎてETの手を借りたいほどである。
ところで、最近のマックのキーボードはフラットになり、さらに密集してきたから、私のように太い指の手の場合には、一文字一文字が隣のキーとかぶってミスタイプになり、非常に不便である。時間がかかってしょうがない。なんとかならないものか。
外人はノートブックPCの場合、手のひらの付け根をパソコンのパッドの両側について、細長い指でパコパコキーを猛烈なスピードで打つ。が、私の場合は、手のひらを置くと冷たくてしょうがない。だから、直にパソコンの上にはつかない。そうなるとますますミスタイプが増える。ほんとなんとかならないものか。パソコンの形状も日本人型があるに違いない。なんで人種ごとに違うパソコンを作らないのか?
中国人が絶対使えないようなパソコン。韓国人が見向きもしないようなパソコン。西洋人がぜったい扱えないパソコン。そんなものを作れ。
ジョーダンは吉本。
さて、今日聞いた、武田鉄矢の今朝の三枚おろしのアフォーダンス理論の延長線の話。「ウィズコロナ」の話は非常に興味深かかった。これである。
この中でテーマとなった本はこれらしい。
今回の話は、私が最近ここでメモしてきた岡潔の「2つの心」の話の視点から見ると非常によく理解できるので、一応詳しくメモしてみよう。
むろん、武田さんやその本の著者の西洋人にはまだ理解できていない。その影をおぼろげに見ているだけだ。たぶん、見ていることすら気づいていない。
(あ)1回目(11月9日)
ウィズコロナ → 水コロリに聞こえる
AI → スポーツには役立たない
正しい答え(正解) → 適切な答え(最適解)
ソーシャルディスタンス→ 間合い(まあい)
10%の間違い批判 → 90%の正しい行動を称賛
という話は実に興味深い。
(い)2回め(11月10日)
アフォーダンス理論=環境と人間どうやって行動していくかの理論
人は考えて行動する → 人は行動しながら考える
女 → 男
ゴミをその都度出す → 蓄積してから出す
外人はスプーン文化 → 日本人は箸文化
ナイフとフォーク → 箸一本
外人は道具少ない → 日本人が道具が多い
(う)3回め(11月11日)
アフォーダンス理論
人は動きの中で考えるーJ・ギブソン
心は1つであるとはいえない
環境の変化→人は動きを判定する
本の読むことの不思議さ
人により本の読み方が異なる。
水谷加奈「武田さんが言ったことを本で探したけど、そんなこと一行も書いてなかった」
谷川俊太郎の詩→読み方で意味が異なる
いるか いるか
いないか いるか
いない いない いるか
いつなら いるか
よるなら いるか
またきて みるか
明るく読む→動物の「いるか」
静かにゆっくり読む→「できごとを眺めている」
暗く沈んで読む→「犯罪者が誰かを探しているように聞こえる」
読み手の読み方で文章の中身が変わる
(え)4回め(11月12日)
武田鉄矢の言った感銘深い言葉が、水谷加奈が本で探しても存在しない。
一言もそんなことは書いていないじゃん
俺は書いてあると思って読んでいる
鉄矢さんは行間を読んでいると思った
アフォーダンス理論が読む人にもある
(1) 著者が書いてあることを読む人
(2) 著者が伝えようとしていることを推し量って読む人
(3) 読みながら自分の中の読者が違う読みをしていることを読んだという人
(4) 筆者が書かなかったことを読んでしまう人
(5) 筆者がこれが言いたかったんだということを読む人→武田鉄矢
武田→なんかコロナに対する自分の感じ方が異なる
ウィズコロナなんて、水虫の薬に聞こえてしまう
武田鉄矢→「コロナはなんで今来たんだ」とコロナに聞きたい
百合子「ソーシャルディスタンス」→女子アナ水谷加奈「社会的距離」→武田鉄矢「間合い」→「間合いの研究をしろ」
間合いの名所→渋谷のスクランブル交差点
ソーシャルディスタンスより「間合い」で結構。
(お)5回め(11月13日)
ソーシャルディスタンス→「間合い」のこと
「間合い」とはなにか 二人称的身体論
渋谷のスクランブル交差点
日本人→渋谷の交差点でぶつからない
→周辺を見る
→ぼんやりと全体を見る
→まっすぐ歩かない
→対面する人々からのエネルギーの圧力を察知する能力がある
→間合いがとれる
外人 →渋谷の交差点で衝突する
→前だけ見る
→詳細を部分を見る
→真っすぐ歩く
→察知能力がない
→間合いが取れない
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さて、だいたいここまでが先週分の今朝の三枚おろしの話だった。
もうお気づきだろう。ここを見てきたり、私のYouTubeチャンネルの岡潔の50年前の講演を聞いた人ならば。
そう、武田鉄矢さんがいつもとりあげる欧米の著名な、心理学者、教育学者、精神分析学者、脳科学者などの本は、西洋人が研究したものを書いたものである。
その一つが、アフォーダンス理論である。
つまり、「西洋人が研究した」ということは、そのまま「前頭葉」で考えたことになるわけだ。
「私が愛する」
「私が聞く」
「私が実験する」
「私が考える」
「私が仮設する」
「私が結論する」
「私が理論する」
、。。。
「まるでカワセミの鳴き声だ」と岡潔が言ったように、すべてに「私が〜〜」となる。
しかし、その瞬間にそれが前頭葉の「第一の心」=「思考」になる。
岡は、前頭葉の思考は「理屈」と「妄想」と結びついて「邪性」になると言った。
いわば、幼少の子供のおもちゃ箱の底が抜けたようなものだと岡は言った。だから、ある意味、面白いと。
前頭葉に宿る思考「第一の心」は、電灯の光が灯るようなもの。つまり、私が働いたときだけ働く。だから、眠っている時は点灯しない。
「そんなものは本当の心じゃない」と岡は言った。
人が眠っていても、平安に生きている。
それは、前頭葉にはない頭頂葉に宿る「第二の心」があるからだ。
「第二の心」は、人が考えなくてもその人に安らぎを与え、生きる続けることを安寧に携える。
つまり、第一の心が眠って休んでいても、第二の心はずっと働き続け、その人に平穏無事を保証する。生きる「意」を持つ。
西洋人は狩猟民族だから、「第二の心」の頭頂葉に発露した「意」をすぐに「運動領」に渡す。
頭頂葉から「意」を受けた運動領は、今度はそれを「前頭葉」へ受け渡す。
つまり、
「第二の心」=頭頂葉→運動領→前頭葉=「第一の心」(意識)
のように「第二の心」の「意」が伝達される。これを「前回り」と呼んだ。頭の高い位置の頭頂葉から前頭葉へだから、「前下り」と呼んだ。
その逆に、
「第二の心」=頭頂葉←運動領←前頭葉=「第一の心」(意識)
のように行くのを「前上り」と呼んだ。
しかし、最初の川の流れが強すぎて、決して頭頂葉に遡れないと。だから,せいぜい運動領まででUターンしてまた前頭葉に跳ね返される。
だから、外人は決して「第二の心」の故郷を悟ることができない。
ところが、日本人の脳は、
「第二の心」=頭頂葉→後頭葉→側頭葉→前頭葉=「第一の心」(意識)
と進む。これを岡潔は「後回り」と呼んだ。
この逆に
「第二の心」=頭頂葉←後頭葉←側頭葉←前頭葉=「第一の心」(意識)
は、後頭葉から頭頂葉へは間に運動領がないから、頭頂葉へ簡単に行ける。
だから、日本人には、第二の心が少し分かる。しかし、側頭葉の記憶の図書館や機械室で知識にとらわれるとその先へはいけない。
つまり、東大クイズ王のような連中には「第二の心」がわからない。
さて、最初の武田さんの元ネタのJ・ギブソン博士はこういった。
ギブソン「人は動きの中から考える」
しかしこれはまさに岡の予言の通りだ。
「西洋人は前回りでしかものを考えることができない」「いくら言っても理解できない」
つまり、「第二の心」=頭頂葉→運動領→前頭葉=「第一の心」(意識)
この「意」の流れの構造が、「考える前に行動に移す」という西洋白人種のことを言っているわけだ。
わかったかい?武田鉄矢さん。
白人の本読み過ぎちゃーいけませんよ。正法眼蔵を読まなきゃ。
漢人と鮮人と白人は非常に似ている。
自分に理解できないことは存在しないことなのである。
しかし、明らかに岡潔の言説の方が正確で巧妙で明解である。情報豊かである。
西洋の著名な心理学者でアフォーダンス理論の旗手のギブソンの言説は曖昧模糊としたアバウトなものに見える。
言い換えれば、まだ本当には理解していない。
小学1年生にも至っていない。
ところが、岡潔は「ブッダですら第二の心を知らなかった」と分析したわけだ。
ブッダはコーカソイド、すなわち白人であった。ブラフマンというのは、3000年前にコーカサス地方からインドへ侵入した青い目のアーリア人の一派である。
その頃、東のチャイナに侵入したのが、アーリア系の殷人である。これが殷(商)、周、秦(しん)となり、秦の始皇帝の時代を気づいた。だから、初期の支配者は眼が青かった。
だから、西アジア一帯に「青い目の征服者」の伝説が残る。モンゴルにも残る。初代モンゴルの創始者は目が青かったと。
彼らには、狩猟民族としての脳みそがあり、その結果、思考は前回りのみ。だから、運動してから考える。さもなくば、狩りができない。獲物はじっとしていれば逃げてしまう。
「動物を狩る」という意味は、実は、「戦闘ロボット」という意味である。なぜなら、動物の最上級形態が地球では人間である。
動物を狩る民族は、必ず最後には人を狩る。つまり、帝国を生み出す。
これが「第一の心」しか持たない人形クリーチャーの欠点である。
これが今も残り、バイデンvsトランプの戦いに見ることができると言うわけだ。
彼らには、「まず行動が先で、考えは後から付いてくる」。
Act first, Think next
なのだ。
中東のアラビア語では、動詞が最初に来る。動いてから誰が誰にを後で考える。
ところが、我が日本語だけが、行動が最後になる。動詞が最後に来る。
この意味は深い。
実は日本語と岡潔の言った脳の後ろ回りとは非常に深い関係があるのだ。
だから、日本語にして初めて「わたし」を省略する論法や話法が誕生する。
これができる時、西洋人が永久に不可能な「無私」の思考が垣間見ることができる。
それが熟達して初めて「第二の心」が分かる。
こうした達人になって初めて、松尾芭蕉や山崎弁栄上人のような感性が生まれる。
前頭葉だけ、強く意識したときだけ思考が働く、つまり、ぼんやりしていると意識が働かないという、西洋人は渋谷のスクランブル交差点で衝突する。
頭頂葉で第二の心を働かせることができる日本人はみな、ぼんやりして世界を見ているからこそ、武道でいう「玉眼」が働き、渋谷のスクランブル交差点でも衝突しない。
だから、これがいとも簡単にできている日本人に、外人共が感嘆するというわけだ。
ついでに言えば、最初に武田鉄矢さんが、「ウィズコロナ」はどうもしっくりいかないんだ、といったわけは、おそらく、武田鉄矢さんは日本人だから、「第二の心」が備わっていて、それが、「第一の心」の西洋人が生み出した「ウィズコロナ」の思想がしっくりこない。そういうことだ。
しかし、小池百合子は在日コリアか、たぶん在日チャイナだから、西洋人型の外人脳を持っている。だから、「ウィズコロナ」がしっくり来る。彼女は何の疑問も感じない。違和感を感じる脳みそがない。
しかし、俺には分かる。
要するに、武田鉄矢の言いたいことは、
「日本人は日本人に合うようなコロナ対策で良いんじゃないか?」
「何も外国のマネしなくてもいいんじゃね」
と言いたかったのだと俺は思う。たぶん、そのとおり。
俺に言わせれば、率先して、
カツオや鮮魚料理と
わかめや海藻入りの味噌汁と
豆腐や納豆と醤油と
ご飯の和風の食事と緑茶を推奨すれば、それでOKだ。
これで、和食はウィルス感染防止、緑茶はウィルス自己増殖防止なり、両方を実現できる。
一番悪いのが、マックへ行って、ハンバーガーの肉食に乳製品で下痢し、アスパルテーム入りのゼロのコーラを飲む。こういうような食事である。
自己免疫阻害フードである。
厚労省は、感染者の食事と感染の関係を調べるべきだ。が、まったくやる気なし。前頭葉だけの人種に置き換わったからだナ。
わかりましたか?
いかに岡潔という数学者がものすごい思想家だったかわかるだろう。
これにて一件落着。めでてーな。
頑張ろう、日本人。日本人であることは、これだけ恵まれたことなのである。
決して自殺なんてしちゃーいけませんよ。