みなさん、こんにちは。
先日、私は、歴史に「If もし」というものはないというが、
おそらく戦後の我が国の中で初めて、
徳川家康と豊臣秀吉は、連合艦隊を作り、オランダとイギリスとの連合艦隊として、アジアのポルトガルとスペイン帝国支配(=ポルトガルとスペインによるアジア支配)を打ち破り、アジアを実質統治すべきだった
という考え方を披露した。これだった。
さて最後に、歴史のもしはないが、これまであまり考えていなかったと思うが、徳川家康は関ケ原の合戦でかなり経済的にも人的にも損失を得たから、富国に励むために鎖国を考えた。
しかし、もし家康が信長のように当時の世界情勢に詳しく、フィリピンのオランダの助太刀をするふりをしてスペイン艦隊を滅ぼし、アジアを支配しようとすればできたのではないか?
みすみす東南アジアの経済利権をオランダに取られ、その結果、それが第二次世界大戦になって、日本海軍が英蘭の軍隊を撃破し撤退させる形になった。
つまり、あのとき、家康が鎖国しなければ、日本は世界最強のヨーロッパ型の国家、つまり、明治維新を400年以上早く実現できたのではないか?
その結果、インドやアジアは400年もの間白人の植民地支配に合う必要がなかったのではなかろうか?
つまり、家康が豊臣家と組んで、アジア支配を目指せばできた。
そして、大東亜共栄圏は400年前に実現できたのではなかろうか?
つまり、いまのアジア圏のような状況が、400年前にでき、インドもその頃に独立できたのではいか?
とまあ、こういうことが考えられるのである。
これはどうやら事実だったようだ。
昨日メモした
の中の最後のものに
があったが、この中に1945年8月15日の終戦の日以後、残留日本兵1000人ほどがインドネシアに残り、日本では東京裁判が行われている最中にインドネシア独立戦争で共に戦い、オランダ植民地支配を打ち破るために大きな犠牲者を出しながら独立(ムルデカ)を獲得したという歴史を描いた映画「ムルデカ17805」が含まれていた。
それで、それをじっくり見たのだが、実に考えさせられるものだった。
むろん、言うまでもなく、我々が受けた戦後の日本の戦争犯罪者意識植え付け自虐史観教育の文部省の教育の中では存在しない歴史である。
いずれにせよ、そういう陰謀は、実際に戦地で日本人と戦かった米白人から出るものではなく、自分は何もしないで人を指図していればよい白人偽ユダヤ人の支配層の軍人が行うものである。
我が国の公家と遠い昔には同じ血筋たったため、公家と同じような陰湿で残虐な考え方を行う。
さて、その映画とはこれだった。いまはサービス期間で無料で見ることができるらしい。
上のYouTube番組では、この辺りから始まる。

Murudeka (Merdeka).17805. Part 01/02
さて、映画は個々人で見てもらうとして、問題のシーンはこの部分だ。
インドネシアを350年間植民奴隷支配してきたオランダ軍を電撃特攻作戦で一気に陥落させ、インドネシアを開放した日本兵の若き司令官が現地に立った時、その時に現地人がその司令官に言ったというインドネシアの古くからの伝説の中身である。
この国には古くからの言い伝えがあったというのである。それがこんなものだった。
私はあなたを待っていた。
このジャワには、東の方から黄色い人がやってきて、白人に虐げられた人々を長年の苦しみから開放してくれる。
そういう伝説があります。あなたがその人です。
この伝説のオリジンはどこから来たのだろうか?
私の考えでは、徳川と豊臣の関ヶ原の合戦の時代、インドネシアはスペインとポルトガルの支配下にあった。
関ケ原の合戦の後、オランダ東インド会社のユダヤ人商人、ウィリアム・アダムスの画策により、オランダは莫大の利益を日本から上げることに成功。
さらにオランダは、スペインのカソリック教徒の布教による日本の宗教的植民地支配を退き、オランダとイギリスに帰属する商売のためのプロテスタントの国に作り変えることを目指した。
そのために、オランダは、我が国にあった南蛮寺(カソリックチャーチ)を破壊し、キリシタン禁止令を秀吉や家康に出させ、イエズス会を追いやった。
そして、オランダは、関ケ原の合戦で必要のなくなった日本の武士を傭兵として雇い入れ、オランダ戦に乗せて、フィリピンや東南アジアのスペイン帝国軍と戦った。
そして、ついにスペインによるアジアの白人支配は終わった、かに見えた。
ちなみに、このイエズス会とオランダとの日本国内の交戦部分を最近語るもの。最近、保江邦夫博士が佐賀県の鍋島家の末裔から知らされたというのが、これである。
保江邦夫 先生 【 日本の行く末に関わる隠された歴史を語る! 2019年1月 】 <5/11>
英蘭、イギリスとオランダがイエズス会のカソリックの代わりとして我が国の宗教支配に用いたもの、それが
浄土真宗
であった。だから、浄土真宗は仏教の形にカモフラージュしたプロテスタントのキリスト教なのである。これが、西本願寺、東本願寺である。本願寺=プロテスタントのキリスト教会。南蛮寺はイエズス会のカソリック教会のことである。
親鸞の説いた浄土真宗といまの本願寺の浄土真宗とは似て非なるものに変わったのである。
東本願寺

築地東本願寺
どっちもニセキリスト教会であり、日本を支配することが目的の邪教。これをスペクターという。
デーブ・スペクターのスペクターとは、邪悪な霊のことであった。だから、奴はモサドなんですナ。
だから、本来なら、日本人でイギリス人やオランダ人やアメリカ人やカナダ人と結婚するとか、白人と結婚するとかいうのは、ありえないことなのである。
問題はその後だ。
スペインを駆逐したオランダは、東南アジアを開放したのではなく、スペインに取って代わっただけだったのだ。
そして、それから
350年間
インドネシアを植民地支配してしまったのだ。
インドネシアからカソリックスペイン帝国海軍を追い払ったのは良かったが、日本の侍はその後どうしたのか誰も知らないわけだ。
日本へ戻ったのか、現地人になったのか、オランダへ行ったのか、あるいは、オランダ人に邪魔になったため殺されたのか。
私の個人的印象では、最後の一緒に戦った日本の侍をあとでオランダ軍は適当な理由をつけて殺したのだろうと思う。
むろん、ただ殺されるだけの日本の武士ではないから、逃げたものも多かっただろう。
私の個人的想像では、この時期結構の日本人が東南アジアに住み着いた。
事実、室町幕府の時代、「黄金の日々」という小説にあるように、当時すでに日本人は海外に出向いていたのである。日本人街も多く東南アジアにできていた。
その後の数百年の間に、そういうものは現地ではわからなくなったのである。
しかし、前からなんか変だなと思っているのに、東南アジアの人のする伝統的な虫よけの白粉がある。
その名前が、なんと
タナカサン(田中さん)
なのである。
こういうお化粧の伝統のあるアジア人は非常に日本人に似ているのである。
おそらく現地人にはそういう知識はなかったはずだから、当時500年ほど前に我が国から現地へいった日本人の誰かがそういうことを発見し、そこに伝統として残したものと考えるべきだろう。
こういうように、東南アジアには、室町時代以降、かなりの日本人が現地で活躍したのである。実際、日本の侍は強かったから、白人が植民地支配に来た時も勇敢に戦って散っただろう。
こうして、映画にあるように、ジャワでは古くから、とはいっても数百年前から、黄色い顔のアジア人がやってきて白人支配を撃ち破ってくれるのだという伝説が生まれ、それがこの大東亜戦争の時代まで残っていたのである。
だからこそ、本当は、我が国は豊臣秀吉、徳川家康の時代、関ヶ原の合戦という名前の内戦を行って疲弊するのではなく、むしろ、江戸末期の大政奉還のようにして、政権返上し、アジア支配を行っていたスペイン軍と戦い、ついでにオランダとイギリスの東インド会社も潰しておくべきだったのだ。
そうすれば、東インド会社がアメリカ合集国を作ったわけだから、いまのアメリカも存在しなかった。
つまり、関ケ原の合戦がなければ、北中南米のアジア人=縄文系の人々は西洋白人種の植民地支配を受けなくてすんだわけである。
黒人奴隷もアメリカへ行く必要はなかっただろう。
このように、世界史の中で日本史を見た場合にのみ、本当の我が国の価値やその意味が理解できるのである。
が、こういう史観はいまだ我が国には存在しないのである。
今から350年前に、バスコ・ダ・ガマ以来、ポルトガルやスペインに支配された東南アジアを侍たちが蹴散らした。
ところが、日本の侍がいなくなった途端に今度はオランダとイギリスがそこを植民地支配した。
そして、大東亜戦争のとき、日本の侍たちが蹴散らしたスペインに成り代わって350年間インドネシアを支配したオランダをまた旧日本軍の侍たちが蹴散らしたというわけだ。
この最後の部分で、オランダ人が戦後賠償しろというのなら、350年もの間に植民地支配を受けたインドネシア人はオランダの350年分の植民地支配補償を請求すべきであろう。
たぶん、オランダは破綻する。
物事は正しい歴史をみないとだめだというのはこういう意味である。
だから、俺はいつもいう。
無知は犯罪である。
バカは死んでも治らない。