甲府大空襲
米軍のユダヤ人によるこの戦争犯罪はいまだに裁かれていない。
みなさん、こんにちは。
そういえば、先日
の中に、我が家のご先祖が、いまや山梨で最も古い鰻屋で有名になった若荒井の家系出身だったという、驚きの歴史をメモしたが、それを私に教えてくれたのは、私の父の妹の千恵子の叔母さんだった。
さらに興味深かったのは、私の父が戦前、山梨の秀才中の秀才しか入れなかった旧制甲府一高でサッカーをやっていたということは知っていたのだが、次男だった私の父の上の長男の叔父さんもまたサッカー選手だったということを叔母から聞いたのだった。しかもGKだった。なんと昔の山梨の強豪甲府商業サッカー部のゴールキーパーだったということだ。
その頃、叔母は「甲府商業のGKの妹」と呼ばれていたとか。それほどのGKだったというわけだ。
ここ徳島でも、戦前の強豪と戦後の強豪は全く違う。戦前は、ここ阿南の県下の秀才が集った富岡西高と徳島商業の2強時代だった。徳商はおそらく、オレンジか真っ赤のユニフォーム。一方、富岡西は赤白の縦ストライプだったようだ。いまは徳商がオレンジ、富西はえんじである。
同じように、昔の戦前の山梨も、甲府商業と甲府一高の二強時代だったのだろう。
一方、今も元気に健在の叔母さんは、カナダのシスターたちがお作りになった、できたばかりの山梨英和学院に進学した。
この叔母さんから、聞いた初めての話が、もう一つあった。これも本当にごく最近、今年になってから、父が4月5日に亡くなってから聞いたのである。
その叔父は、なんと特攻隊員だったのである。
九州まで出兵し、そこから我が国の最後期の特攻機に乗るのを待っていた。そして、それが翌日となったその日、つまり、昨日か今日あたりとなった日に終戦となった。
山梨県には韮崎に広大な平坦の土地があり、そこに空軍基地の飛行場があった。その跡地に、山梨航空高校があるわけだ。いまは野球もサッカーも強豪校になっている。
私の父は、戦争世代からちょっとずれて、大学進学して勉強もできず学徒動員に時間を費やされてしまい、終戦後は今度は家が焼かれ、住む場所もなく、その後の闇市時代でとても大学進学などできる状況ではなかった。そういう時代に重なったから、特攻隊に行くということはなかったのだが、叔父さんの方が特攻隊に入ったのだった。
いわゆる少年兵の時代の特攻隊である。ベテランパイロットは皆戦死。あとは突貫工事のような訓練で特攻を行う10代の少年兵の特攻隊である。
とにかく1日の違いが生死の境となった。
とまあ、こういう話をこの歳になって初めて聞いたのである。
叔母さんは、特攻に行かずに良かったと思ったようだ。しかしきっとその叔父は複雑な心境だっただろう。おそらく一緒に修練した仲間や先輩は特攻したからである。
甲府の青沼あたりは中心地であり、B29の焼夷弾の格好の餌食となり、その一帯はすべて焼き尽くされた。甲府盆地の甲府市もまた東京と同じく焼き付きたのである。
その中にあった我が祖先の家、父の実家は完全に焼失したという。
疎開先から生き残り、最初にやったのは、井口家の男たちがどうやら山へ行って竹やぶから竹を切ってきて、それの竹を使ってあばら家を作った。両親と兄弟4人姉妹2人の8人は、そのあばら家に雑魚寝の形で戦後の生活の第一歩が始まったというのである。
風呂はドラム缶を拾ってきて、そのドラム缶の風呂。
しかしながら、私の叔母の自分史、話から驚くのは、こんな状態から始まったにもかかわらず、もう終戦のその年の秋からは学校に通い始めたのである。
かつて私がユタ大でPhDをとり、ハーベイ・コーン(Harvey Cohn)というユダヤ人数学者にPhD論文を送り、その縁ですこしメールを交わしたことがあった。この人は戦時中、若い米軍兵であり、終戦後日本にGHQの一員としてやってきた。そして米国に帰国後大学へ入り、超一流の数学者になったという。
そして私に感慨深く知らせてくれたのは、
The Japanese were overwhelming!(日本人には圧倒された)
という言葉だった。
つまり、日本各地殆どが焼き尽くされて廃墟と化していたのに、日本人全てがそれぞれに復興への努力を行っていた。子どもたちは青空教室の学校で勉強しはじめ、大人たちは突貫工事で家を再建し、それぞれの仕事へ戻っていった。焼かれた家々を撤去し、どんどん新しい家々が建っていく。
この姿に圧倒されたというのである。こんな民族は見たことがないというわけだった。
私は、叔母さんの話を聞いた時、このコーン先生の若かりし日の体験を思い出したのだった。我が祖先も甲府で同じようなことをしていたのである。
おどろくべきことに、1年か2年で我が国はほぼ昔の姿を取り戻したのである。
しかし、戦前とは180度発想が変わり、キャッチ・アップ・アメリカであった。
この闇市時代、私の父は京都大学への進学の道がなくなり、ちょっと荒れた時期があった。町のチンピラは軍隊仕込の腕力でねじ伏せた。
この時代の喧嘩は、大将の一対一の対決である。
私の父は甲府一高で一二で頭がよく、甲府一喧嘩が強かったのである。しかも甲府一のハンサムだった。
だから、かなりその筋では名の知られた存在になっていたらしい。
そんな闇市時代の喧嘩相手にその後住吉会の若頭になったものがいた。
私が甲府南の高校生のころ、仕事を手伝った帰りの父の行きつけの高級喫茶店があり、そこでビフテキをごちそうになっていたとき、白い帽子の男どもが入ってきた。父を見るなり、いきなり挨拶をしてきた。
そして、いまもその時の言葉をしっかりと聞いて覚えている。
「面倒くさいやつがいたら教えてくれよ」
父は照れくさそうに、ちょっと会釈しただけで何も言わなかった。
そこで、私はなにか変だなと思いつつ、あの人を知っているのかと聞いたところ、あいつはこれだと言って、頬を切る仕草をした。つまり、ヤクザだというわけだ。
それで私もその言葉の意味がわかった。そこで下手にだれかの名前を言えば、いまでいう、デスノートのようなことが起こるというわけだ。だから、父は照れくさそうに、ちょっと会釈しただけで何も言わなかったというわけだ。
終戦直後、まだ荒れていた私の父が街のチンピラだったその男をコテンパンにのしたのだった。それ以来そいつから一目置かれる存在になったらしい。
まさに石原裕次郎の映画の世界を地で行くような話だった。
外人は日本のいい部分しか見ない。そうしないと、自分の置かれた厳しい世界の逃避行の世界にならないからだ。つまり、外人にはそいつの脳みそが感知できる範囲でしかものが理解できない。だから、我が国の圧倒的な良い面だけをみた。
しかし、戦後の日本には恥部や暗部も同時に存在したわけだ。いまもそうだ。
常に物事には両面がある。裏と表がある。しかもメビウスの帯のように、一周回るとそれが逆転しかねない。
まさに、いまの中韓がそれだ。一周回ったら、善悪の価値観が正反対になったわけだ。昔の善が今の悪に変わったのである。いまやアメリカもそういう感じになった。
さて、大分余計な昔の前置きが長くなってしまったが、我が父や叔父の代わりに散っていった日本男児たちの英霊に対する黙祷や追悼を兼ねて、これをメモしておこう。
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司会をしている半井小絵さん、実に神々しく見えますナ。きれいになったようナ。