みなさん、こんにちは。
梅雨があけると蝉が出る。
まず最初の内は、アブラゼミが、ジジジジジジジーと鳴く。

クマゼミが、ジージージージージージーと鳴く。

夏も深まってくると、今度は透明な羽のミンミンゼミが鳴き出す。ミン、ミン、ミン、ミ〜〜〜〜〜ン。

ヒグラシがキキキキキキキキーと鳴く。
そして夏が終わりに近づくと、ツクツクボウシが、ツクツクボ〜〜〜シ、ツクツクボ〜〜〜シ、ツクツクボ〜〜〜シと鳴く。
要するに、我が国では、蝉の名前は、その蝉の鳴き声の特徴からているわけだ。
アブラゼミは、油で何かをジージーと揚げているときのような音がするように聞こえる鳴き声だ。
クマゼミは外見が蝉の中では黒くクマに似ているからかも知れない。
いずれにせよ、我々日本人には、蝉の鳴き声は日本語の言葉で表せるように聞こえるのだ。
実はこれが1970年代に
角田忠信博士の「日本人の脳」
脳の作りが違う
という最初の証明だった。
私が読んだのは理科大時代の1977,8年頃だったと思う。おそらく、私の人生の初期に一番影響を与えてくれた本だったと思う。
私は高校時代までほとんど本というものを読まなかったから、大学生になって最初の夏休みに二ヶ月で100冊ほど古今東西の本を読み漁る時期があった。
だいたい作家一人一冊。その人のもっとも代表的なものだけを読んだ。
日本の作家から海外の作家の翻訳本などを読んだ。
ほとんど読んだかどうかも定かではないが、その時たったの3冊だけ、いまも記憶に残るものがある。
それが、この角田忠信博士の「日本人の脳」、スタインベックの「怒りの葡萄」、???の「本を読むための本」の三冊。
最後の「本を読むための本」というのは、いまやタイトルと著者を思い出せない。最近ネット時代になり、度の本だったかいろいろ調べて、これかなと思ったものを見つけてアマゾンで買った。それがアドラーの「本を読む本」だった。
しかし、中を見ると、私の読んだ本ではなかった。
私の記憶では、いろいろな本の読み方が書かれたもので、また西洋世界の偉人の読書法が書いてあったと思う。
私が特に印象に残ったのが、万能の天才になったライプニッツの読書法だった。それ以来、それをずっと真似てきた。
つまり、教科書であれ、本であれ、何であれ、読める場所から読んでいき、辞書のようにして何度も読んでその分かる領域を広げていき、最後に全部つじつまを合わせる。ライプニッツは、母国語以外の本もこうやって暗号解読のように読んでいったとあった。
いまフランス語の本や論文はまさに暗号解読しながら、ロゼッタストーンを使って読むような感じだ。分かる部分は少ない。が、少しずつその領域を広げていく。
さらに面白い読み方は、「最初から読む」の他に、「好きな場所から読む」あるいは「後ろから逆順に読む」というものだった。結論から先に読むわけだ。
あるいは、最初と最後だけ先に読む。中はそのうち。
この読み方は非常に科学の本を読む場合に役立ったのだ。
たいてい数学や物理学の本、専門書は普通最初から後ろへ向かって順番に読んでいく。しかしこれだと中に出るハードルの部分に出くわすと、そこで躓く。躓くと嫌になってもうその本を読まなくなるという人が多い。
実は科学の本には思考上の飛躍の部分があり、そういう場所は非常に難しい場合がある。それで、そういう部分は無視して先へ進むとまたわかりやすくなるということが往々にしてあるのである。しかし、順番に読んでいかないと気がすまないタイプの人はそのつまづきで読むのをやめる。また別の本を買ったらわかりやすいだろうと思って別の本で読んでも同じような部分に出くわしてそこで終わる。これを繰り返し、先へ進めないのである。
数学嫌い、物理学嫌いになった人の多くはこういうタイプの人である。
そういう場合、分かる部分だけ適当に読む。そして、年月が過ぎ自分の理解が進んだ頃にわからなかった部分を読み直すと、今度は自然に理解できるようになっていた。こういうことがしばしば起こるのである。
ワカラン人はほっとけ。
というのと同じで、その時理解でき無いものがあっても気にせず放っておき先へ進む。
物事は、いつもそこが理解できなければ先が理解できないとなっているというものではない。
話が読書の話に飛んだが、元に戻すと、角田先生の大発見とはこれだった。
西洋語、日本語(あるいは、膠着言語)以外の語の世界の人の脳は右図、日本人の脳は左図のようになっているのである。
西洋人の脳は、左脳は健在意識を司る子音(シラブル認識の)言語脳、右脳は潜在意識を司る音楽や音や雑音を認識する脳だったのである。
一方、日本人の脳は、左脳に言語の他に西洋人が右脳で感じる部分が言語として感じる部分があったのである。
つまり、日本人は自然界の中の音声に対して、日本語言語の音と同一視して感じる感覚があった。
ところが、外人にはそれがなく、言語の特徴となるシラブルや音の強弱のような言語を理解できるが、それ以外の音声は雑音や機械音としてとらえるのである。
こういうことを実験で初めて観察し、それを研究論文として出版したのである。この事実は大分前にアメリカの大学で教えるような脳科学の教科書にも載っていたのである。
ところが、文科省の役人や英語塾の塾講師あがりの文科省大臣の下村博文時代に、英語教育を「ヒアリング重視」という名目で簡単化簡略し、日本人の影技教師から外人教師登用にシフトし、中学から開始を小学校から開始と若年化させた。
結局、STAP細胞スキャンダルを造り、日本をだめにした。
お前の使命は早く死ぬことだ!使命感を見せろ!
その結果、いまやこの日本人の脳」を持たない、持てない若者が、なんと10人中9人。つまり、1割の若者しか日本人の脳を持たなくなったのである。
つまり、いまの若者の大半が、蝉の声を聞いても雑音、除夜の鐘を聞いても雑音、コウロギの声を聞いても雑音、鳥の声を聞いても鳥の声としか聞こえない人間ばかりになったのである。
これがどういう意味かを証明してくれる面白いものがあったので、それをメモしておこう。これだ。
海外の人には「セミの鳴き声」はこう聞こえている
セミを映した動画「Summer cicada sound and video」には、その鳴き声を聞いた海外ネットユーザーの感想が多数書き込まれている。つまりそれらの感想を見れば、セミの鳴き声が彼らの耳にどう聞こえているのかを知ることができるのだ!
・セミの鳴き声を聞いた海外ネットユーザーの感想
「今まで聞いたことがあるオナラのなかで、最も長いオナラ」(アメリカ)
「 “自然” の音だね」(アメリカ)
「美しい」(イギリス)
「セミがどんな姿をしているのかずっと疑問に思ってたんだ……これはとてもイカした夏の音じゃないか!」(アメリカ)
「テッカニン(ポケモンの名前)みたいだ」(メキシコ)
「こいつ、俺の嫁よりうるさい」(アメリカ)
「カワエエエエ!」(アメリカ)
「『ひぐらしのなく頃に』(アニメのタイトル)だ!」(ブラジル)
「セミはどうやってこの音を出してんだ?」(イギリス)
「俺の耳にはひとつの音楽に聴こえるよ」(アメリカ)
「見た目が怖い」(アメリカ)
「もしこの音を聴きながら毎朝起きられたら、自分の人生は永遠に幸せだろうなあ」(アメリカ)
「こいつは、お前を八つ裂きするために仲間を呼んでいるんだよ」(アメリカ)
「『ひぐらしのなく頃に』を観てたので、セミの音を聴きに来た」(ギリシャ)
「イライラする音だな」(サウジアラビア)
「つまり夏の音とは、虫のおならということか」(アメリカ)
「これは最も怖い昆虫だ」(アメリカ)
「『ひぐらしのなく頃に』だね!」(バーレーン)
「史上最高の音だわ!」(カナダ)
「俺はお尻からこれと同じ音を出せるぜ」(カナダ)※( )内はコメント投稿者の居住国
全文はリンク先へ
https://www.excite.co.jp/news/article/Rocketnews24_329176/
いくら日本に長く住み、いくら日本語が流暢にしゃべるような外人になっても、彼らには蝉の声は雑音、あるいは、車のエンジン音とか、物音とか、そういう雑音の一種としての蝉の音なのである。
つまり、日本人は「蝉の声」「蝉の鳴き声」「蝉の言葉」と聞くが、外人は「蝉の音」「蝉という昆虫が出す音」としてしか聞かないのである。
つまり、外人脳には風流や情緒というものは存在できないのである。
これが英語の早期教育で生まれるのだから怖い。
まあ、この際だから、種明かしをておくと、下村がどうして英語会話の早期教育にこだわったかというと、これだ。
国際バカロレア
これを流行らせたいと思う日本人の女がいて、その片棒を担いだというわけサ。
バカロレアという名前が悪い。なぜか、「馬鹿だよな」とか「バカになれ」と聞こえるから困る。
つまり、国際バカロレアをやると、「日本人はバカになる」=「日本人じゃなくなる」わけだわ。
下村はこれを日本へ導入したかった。
時代は常に変化する。日本語には英語にない良さが多い。英語でできることは日本語でできる。英語にできないことが日本語でできる。
つまり、英語世界が行き詰まった以上、これからは日本語の時代になるべきなのであって、英語でグローバリデーションは時代遅れなんだ。
ビジネスレベル、コンピュータ言語のような意味でのビジネス言語としての英語は生き残るが、人間らしさ、差別ない人類言語、人間の心や情緒を扱う高級言語としては日本語が世界語になるべきなのである。
戦前に流行ったエスペラント言語。この条件は日本語自体が持っていたわけだ。
この意味で、英語へのシフトは日本人の自殺行為だったというわけですナ。
聞いてる?下村博文さんヨ?
いやはや、世も末ですナ。