イエズス会宣教師「我々は日本人の心を盗みにやってきた」
このイエズス会が作った大学が上智大学である。上智へ行くなら国士舘へ行け!
みなさん、こんにちは。
さて、最近非常に「奇妙なこと」「おかしなこと」に気づいたので、一応個人メモ的にメモしておこう。
むろん、私がいう「奇妙なこと」とか、「おかしなこと」というのは、いわゆる「スピリチュアル系」や「神道系」の人々がいうような意味のものではない。
ここ最近まで、我が国のテレビマスゴミのドラマ、つまり時代劇や歴史物語において、最近の明智光秀とか、武田信玄や徳川家康や織田信長や豊臣秀吉というような戦国武将の物語を描く場合に、たしかにキリシタンのザビエルとか、按針さんとか、外国人の関与も描かれてはいたが、あくまで補助的であって、日本の歴史は日本国内の歴史であって、外国とは無縁の、物理学で言う意味の「孤立系」のように描かれてきた。
しかしながら、それはおかしい。日本は日本人がどう見ようが見まいがこの地球の中の日本なのだから、日本史は世界の中の一つの出来事でしかない。だから、本当は日本で起こった歴史は世界史の流れの中で見ない限り本当の意味は理解不可能だ。
とまあ、こういうことをだいぶ前の11年前に私は拙ブログ1にメモしていたのである。
2009年11月22日
2010年1月25日
みなさん、こんにちは。
今回は、ちょっと話題を日本の歴史に変えよう。
私はかねてから個人的に「明治維新」や「戦国時代」の舞台裏に欧米列強の植民地支配の”暗部とのつながり”があると興味を持って来ているが、要するに、日本の「戦国時代」や「明治維新」も当時の世界支配を行っていたはずの欧米列強の白人国家の世界戦略の一貫でしかなかったのではないか、ということである。それゆえ、どこかに当時の欧米列強の世界戦略とのつながりを証明する「何か」があったはずであろう、というようなことに興味を持っている。
例えば、「フランシスコ・ザビエル」

は、イエズス会から派遣されたエージェントであったわけだから、ザビエルが九州を中心に日本で行ったことには、そのエージェント工作の目的が垣間見えるはずである。イエズス会はいわゆるフリーメーソンの先祖となったテンプル騎士団のカソリック版であったと言われているように、カソリックの布教活動の表向きの名目で渡来し布教するが、一方で裏の目的である植民地支配と不平等貿易のフロント部隊であったわけである。
例えば、この辺の片鱗は、芥川龍之介の「さまよえる猶太人」などを読めば、分かるはずである。
それゆえ、いわゆる天下人を生む「戦国時代」の武将たち、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの背後にいたはずの西洋人やそのエージェントであった日本人武将に非常に興味を持つのである。
徳川家康が豊臣家を滅ぼした後当時の豊臣方に重臣たちをみたら大半が首から十字架を下げていたキリシタン大名だったということからも、欧州列強の関わりの大きさを物語っていたわけだからである。またその家康側にも「按針さん」と呼ばれた三浦按針こと、ウィリアム・アダムスというイギリス人が来ていたわけである。例えば、ウィキペディアにはこうある。
『日本漂着、家康の引見
1600年4月29日(慶長5年3月16日)、リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報。寺沢はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するように要求している。結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康は、路程や航海の目的、オランダやイギリスなど新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員達を投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返したのちに釈放し、城地である江戸に招く。』
このように、日本人の背後でイギリス対スペインの対立が日本の分水嶺であった関ヶ原、大阪冬夏の陣をもたらしたといえるはずである。しかしながら、日本の歴史書や日本の歴史小説にはそういう観点、つまり、「欧米白人の陰謀」という視点欠如しているのである(もちろん、断片的な事象としては歴史の教科書にも載っている)。まるで日本人だけで「国取りゲーム」をしていたかのように描かれている。しかし、実際には、欧州から武器弾薬が見事に届けられ、槍部隊より鉄砲部隊の陣営が日本支配に成功したわけである。
では、日本人の近代革命、文明開化の心のよりどころとなっている、「明治維新」にも同様の事があったはずである。
2017年1月5日
2018年12月7日
にもかかわらず、本当につい最近まで、NHKはおろか、我が国の歴史研究者には、こういう世界史の史観や陰謀論の史観がまったく欠如していたのである。
だから、私はこれは「俺だけの見方で終わりそうだな」と暗澹たる気持ちで過ごしていたわけだ。
と・こ・ろ・が
ところがである。
最近ネットのYouTubeで偶然見つけたのだが、NHKでまさに私の上の見方とまったく同じことが歴史的に証明されたのである。
驚き、桃の木、山椒の木
これである。
戦国~激動の世界と日本~(1)「秘められた征服計画」、NHKスペシャル
戦国~激動の世界と日本~(2) ジャパン・シルバーを獲得せよ 予告編

ところで、昨日まではこの2つはYouTubeで見れたんだが、今日になった途端見れなくなった。しかしながら、他のサイトではまだ見ることができそうだ。まだの人は是非見てほしい。
この番組の内容自体は見てもらえば済むので、ここでメモすると事はしない。
が、私が何を言いたいか!
というと、
(あ)ヨーロッパ人の宣教師や商人は生き証人としてすべてを記録している。なぜならそれが当時の慣習であり、仕事だったからだ。
(い)世界史の中で見て初めて、信長暗殺の本能寺の変の理由がわかる。
(う)ヨーロッパ人が植民地支配の流れの中で戦国時代を引き起こした。日本人同士で戦わせ、勝利したものを支配すれば植民化が完了する。
(え)ヨーロッパ人は他の国々で行ったことを我が国で繰り返したにすぎない。
(お)欧州、アフリカ、中近東、南アメリカ、中アメリカ、北アメリカ、インド、東南アジア、と植民地支配してきたことを日本にも行っただけ。
とまあ、こういう大きな流れの中で我が国の歴史を見なければ、真実は理解不可能だということにすぎない。
そして、実際にポルトガルの商人が我が国の「種子島に流れ着いた」という歴史の時代は、ポルトガルの商人は意識的に漂流者を装ったにすぎなかった。
種子島に鉄砲が伝来された歴史はまったく事実と違い、鉄砲を持ってきたポルトガルの商人たちは、死の商人として世界支配の最中で金を儲けるためにやってきたにすぎない。そして、実際にそれを詳細な日記として記録し、死ぬ前に母国にてきちんと本として出版していたのである。マルコポーロの東方見聞録と同じ精神である。
このときのポルトガルの商人メンデス・ピントは自分の冒険談を「東洋遍歴記」として出版したのである。

この中には、最初のNHKの番組にもあるように、最近でこそそうやって徐々に知られつつあるが、
当時の全欧州における火縄銃の総数より我が国の改良された火縄銃の数の方が多かった
のである。
ピントによれば、彼らが種子島にもってきてそれに北条直時が飛びついて、すぐに種子島の量産体制に入り、その時の一丁がすぐに大坂堺の鍛冶職人に回された。そして、またたく間に銃と弾丸と火薬の製法が日本全国に伝わり、ピントが1年後に日本へ来たときには、全欧州の銃の数より多かったのである。全部日本製であった。
実は、メンデス・ピントは知らなかったが、その時、紀の国和歌山の忍者の一団からも種子島の鍛冶職人のところにきて、銃の製法を直接学んだのである。
どうやらそれが、和歌山に多い、雜賀家と川嶋家なのである。この雜賀氏は安倍晴明に端を発するという。陰陽師の子孫である。
この雜賀の末裔と兵庫の赤穂浪士の抱えた陰陽師のルーツを持つのが保江邦夫博士であり、この二人が最近対談したという本がこれである。
対談相手は、交通事故で臨死体験をして安倍晴明に命を助けられたという若干高校生。生き返ったら能力者になったという若者である。この彼が和歌山の雜賀の末裔であった。
一方、同じ和歌山の紀州、紀の国の川嶋家の末裔が、川嶋紀子様の祖先である。
紀子様
の祖父が川嶋孝彦さんで、この方が戦前大蔵省の統計局の局長であり、その時に戦時中数学の研究だけしていれば良いですよと言われて大数学者になったのが、伊藤清博士だった。その時の研究が「確率微分方程式」である。これがいまの変動相場制の基礎理論ブラック・ショールズ方程式の基本になった。
先見の明。
この先見の明の才能は、陰陽師の雜賀氏、あるいは、川嶋氏に昔からあったにちがいない。雜賀氏や川嶋氏は徳川家康が誕生するはるか前からそこに存在していたわけだ。
さて、話をもとに戻し、その番組の話に戻すと、いくつか非常に奇妙に見えるものがあるわけだ。
つまり、前から私が、イエズス会のザビエルやその後の宣教師を送り出したローマカトリックのバチカンには、そういった宣教師が送った手紙やレポートが残っているはずで、それを見れば本当の歴史がわかるはずだと言ってきたように、実際に残っていたにもかかわらず、ぜんぜん秘密にして誰にも近づけさせなかった。
なのに、どうして今になってこういうものを公開するようになったのか?
私が知りたいのはこれだ。
なぜいまなの? それには何かの意図があるのではないか?
日本、バチカン、オランダ、東南アジア、。。。とほぼ同時期にまったく同じ時代の封印文書や記録や、あるいは証拠が一斉に出てきたわけだ。
番組にもあったように、そうしてわかった事実とは何か?
信長〜家康の時代には、すでに我が国は世界最強の軍事国家になっていた!
ということである。
(1)ザビエルは、日本をキリスト教国に教化することで、日本をスペインの植民地の1つにしようとした。
(2)ザビエルは、スペインやポルトガルの商人に西洋の巨大帆船や銃や大砲を見せ、日本人を脅してに怯ませようとした。
この意味では、ザビエルはずっと後にやってくる米国のペリー提督の役目をしていたことになる。
(3)しかしながら、銃はなくても武器や剣術にすぐれた大量の日本の侍を当時のスペイン艦隊だけで滅ぼすことはできなかった。
(4)そこで、さまざまの武家に取り入り、武器弾薬を買わせ、お互いに反目させ、日本人同士で戦わせる戦法に切り替えた。
(5)その中で織田信長に植民地支配の活路を見出し、信長にカソリックの改宗を強いたが、信長が天下統一した直後、キリスト教に反旗を翻した。
(6)そこで信長の部下の明智光秀をそそのかして、信長暗殺を指南した。
(7)しかし信長の家臣で信長の周りのスペイン人の不遜な動きに不信感を抱いた秀吉は、それを事前に察知して光秀を討つ。
(8)秀吉が天下人になると、スペイン人は秀吉に取り入り、今度は秀吉の兵を使って、つまり、アジア人にすぎない日本人と中国人の民とを戦わせるやり方でアジアの勢力を弱め、その隙きにアジアを植民地支配する路線に切り替えた。
(9)スペインは秀吉に対して、明が朝鮮を支配すれば、その次は日本へ来るとそそのかした。
(10)ところが秀吉は、スペイン人の予想に反して、フィリピンのスペイン太平洋艦隊司令本部を植民地にしようとした。
(11)その頃、未開の関東に流された家康の作った江戸が発展し、そこへオランダ人のウィリアム・アダムスの仲間が漂着したふりをして入国した。漂着はたいていわざとである。
(12)アダムスは英蘭がスペインのヨーロッパ支配に反抗していたため、日本との通称でそのチャンスを見ていた。
ちなみに、このウィリアム・アダムスが「将軍」のモデルである。
『日本漂着、家康の引見
1600年4月29日(慶長5年3月16日)、リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報。寺沢はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するように要求している。結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康は、路程や航海の目的、オランダやイギリスなど新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員達を投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返したのちに釈放し、城地である江戸に招く。』
そして、家康が関ケ原の合戦のときに使った巨大な大砲がオランダ製だった。そして、このオランダ製を買うためにたぶんディスカウントもしないで非常にぼられたのが家康であり、その支払でつかったジャパンシルバーが、オランダの資金源になり、オランダが、いわゆる
スペイン継承戦争
のための基本資金になった。これで、無敵艦隊スペインが滅亡していく道となった。
つまり、出口王仁三郎のいった
日本は世界の雛形論
がまさにそのとおりだったというわけだ。
つまり、西の豊臣と東の徳川の天下分け目の関が原は、西のスペインと東の蘭英の世界分け目のスペイン継承戦争に相当したわけだ。
つまり、言い換えれば、もし関ヶ原の合戦が我が国で起きなければ、ヨーロッパのスペイン支配も終わっていなかった。
つまり、スペインがヨーロッパ全土を支配できた資金源には、我が国のシルバーやゴールドの存在があったのである。
その後、家康は秀吉の側近の高山右近のようなキリシタン大名の怖さから、焚書、キリスト教の弾圧、布教禁止を行っていく。そして、鎖国をして安定の300年の徳川時代を生み出し、その間、長崎の出島にオランダとの通称の窓口にしていった。
問題は、ここである。
関ヶ原で勝利した徳川方や敗者の豊臣側の侍は、無用の長物になり、廃業、転職を余儀なくされた。その結果、オランダ人に買われて、傭兵になり、オランダがフィリピンや東南アジアを植民地化するのに使われたのである。
つまり、ここでも、アジア人同士で殺させ合って、漁夫の利を得る作戦が行われたのである。
これは、南米のネーティブアメリカンに対しても使われて、まんまと作戦にはまり、広大なアメリカがヨーロッパ人の手中に収まった。
そして、この手法はいまも使われているわけだ。アフリカの黒人同士で反目させ、黒人どうしを戦わせる。中東のアラブ人同士を反目させ、アラブ人同士で殺し合わせる。
第一次世界大戦では白人同士で殺し合わせる。第二次世界大戦でもそうだった。そして、いよいよ来年には米中を戦わせ、アジアでは再び日中韓で戦わせる方向にある。
何を言いたいか?
というと、この背後に自分は何もせず、まったく手を汚さず、そそのかして漁夫の利を得ようとする勢力があるということだ。
それが、ユダヤ人である。
戦国時代にフランシスコ・ザビエルの所属したイエズス会はローマカトリックに侵入したユダヤ人の組織だった。ザビエルもマラーノ、ユダヤ教から改宗したカロリックの宣教師だった。
種子島に鉄砲を持ち込んだメンデス・ピントもまたマラーノ。つまり、ピントもユダヤ人。日本のユダヤ教のシナゴークのラビであるマービン・トケイヤーがそれを保証した。
家康の庇護を受け、家康の家臣となった三浦按針も、フリーメーソンが作ったオランダ東インド会社の職員、つまり、プロテスタントに改宗したユダヤ人であった。
つまり、豊臣秀吉についた商人や宣教師がユダヤ人なら、徳川家康についた商人や武人もユダヤ人だったのである。
むろん、アメリカのインディアンを虐殺した騎兵隊の隊長もユダヤ人だった。
ついでにいえば、それから300年後の明治維新のとき、東の徳川幕府側についたのが、フランスのロスチャイルド家であり、西の薩長連合の倒幕側についたのが大英帝国のロスチャイルド家だった。いうまでもなく、両方ともにユダヤ人商人である。
戦国時代の最初も戦国時代が終わり、長い鎖国の時代が終わった明治維新の時も、そして日清戦争、日露戦争、日中戦争、そして第二次世界大戦のときも、ユダヤ人のやり方や手口は同じだったというわけだ。
いまのアメリカ国内の黒人暴動デモでもその構造は同じである。ユダヤ人のジョージ・ソロスやビル・ゲイツがやらせているわけだ。
つまり、この地球の平穏を乱す一番の根源がユダヤ人だということになるわけだ。
まあ、破壊と創造。これがある意味では、進歩を促すわけだが、いつも自分だけは手を汚さず、他人どうしのいがみ合いで儲けるチャンスを伺う。
これが奴らの特徴だ。
いま我が国の芸能界でやっているのが、デーブ・スペクターである。奴もユダヤ人である。戦国時代に来た、スペックスというやつと名前が似ていて驚いたよ。
スペクターはアメリカのCSISの指令で、我が国の芸能界を影から支配し、悪い番組をはやらせ、我が国の文化伝統を破壊し、殺人事件を誘発させる。
つまり、ザビエルの時代に宣教師が
我々は日本人の心を盗みにやってきた
と言ったというように(ちゃんとこいつの手紙に書かれていた)、デーブ・スペクターにみるような戦後我が国へ来た外人タレントやコメディアンもまた、彼らの親玉の指令に基づき、日本人に何かを画策するために来日したわけである。
まさに、今も昔も、
Youは何にしに日本へ?
というわけだ。
さて、もう一つ忘れていけないのは、オランダといっしょに東南アジアでスペインと戦った日本人のサムライの子孫はどうなったのか?
あるいは、キリシタン大名の高山右近に秀吉の鉄砲の代金の代わりに売られたヨロゆきさん、日本の娘たち30万人はどうなったのか?ヨーロッパ人の富豪たちに食われたのか?血を吸われたのか?小児性愛の対象になったのか?あるいは普通に暮らしたのか?
こういった事実であろう。
当時海外へ渡った日本人の行方である。ユダヤ人がアミシャブを作り、失われた10支族探しをするように、日本政府は戦国時代前後に世界に散った日本人の子孫探しを行うべきである。
一部はスペインのカタルーニャ地方にいるらしいが。いま神戸に来ているイニエスタ選手はその辺の出身者らしいから、DNAを調べたら、ひょっとしたら遠い祖先に日本人がいたかもしれないわけだ。たぶん本人もあまりに日本が居心地が良いのできっとそう感じでいるだろう。
さて最後に、歴史のもしはないが、これまであまり考えていなかったと思うが、徳川家康は関ケ原の合戦でかなり経済的にも人的にも損失を得たから、富国に励むために鎖国を考えた。
しかし、もし家康が信長のように当時の世界情勢に詳しく、フィリピンのオランダの助太刀をするふりをしてスペイン艦隊を滅ぼし、アジアを支配しようとすればできたのではないか?
みすみす東南アジアの経済利権をオランダに取られ、その結果、それが第二次世界大戦になって、日本海軍が英蘭の軍隊を撃破し撤退させる形になった。
つまり、あのとき、家康が鎖国しなければ、日本は世界最強のヨーロッパ型の国家、つまり、明治維新を400年以上早く実現できたのではないか?
その結果、インドやアジアは400年もの間白人の植民地支配に合う必要がなかったのではなかろうか?
つまり、家康が豊臣家と組んで、アジア支配を目指せばできた。
そして、大東亜共栄圏は400年前に実現できたのではなかろうか?
つまり、いまのアジア圏のような状況が、400年前にでき、インドもその頃に独立できたのではいか?
とまあ、こういうことが考えられるのである。
したがって、だれが家康に鎖国を命じたか?そそのかしたか?
その辺にまだ解けない謎がありそうだ。
すくなくとも、当時のオランダやイギリスにはまだ世界支配の可能性はなかった。スペイン継承戦争で、パイレーツオブカリブアンの海賊行為でスペインやポルトガルを大破しないかぎり、英蘭の世界支配、つまり、ロスチャイルドの世界支配は存在しなかったはずなのである。
つまり、いまの武漢肺炎を生み出したアングロサクソン・ミッションは存在し得なかったのである。
だれかタイムマシンで家康の時代に戻り、家康にいまがアジア支配のチャンスだ、白人をアジアから撤退させるチャンスだと言ってきたらどうか?
家康の時代こそ、実はアジアを白人支配から防御する最大のチャンスだったのである。
とまあ、私がいつもいう、「世界史をみなければ、我が国の日本史は理解できない」というのは、そういうことである。
つまり、世界は不可逆過程の一大叙事詩であって、孤立系、閉鎖系ではない、開放系なのである。
まあ、エイリアン、宇宙人の存在を含めれば、いま地球自体が戦国時代のようなものなのである。
まさに、日本は地球の雛形なのである。