さて、まあそろそろいいかな、ということで、今回は保江先生と浅川嘉富先生の対談の本をメモしておこう。
実は出版社からその本の出版日より1週間ほど早くその本を献本していただいていた。
だから、すぐに読んでいたのだが、実はそこに私にとって見逃せない気になる問題があって、その疑念を確認するためにちょっと控えていたのだった。
保江邦夫先生は、浅川嘉富先生のことは、昨年暮れ、私が保江邦夫先生にメールするまでまったくご存じなかったのだ。
実は私の父はこの4月5日に逝去したのだが、その数ヶ月前の昨年暮れの11月に一度危篤になった。
それで、私と奥さんとで、当時は新型肺炎は来ていなかったから、飛行機と電車で山梨まで行ったのである。
そして、何とか一命はとりとめたため、当初の予定通り、その足で小淵沢に行き、そこで2泊したのである。
実は、父とは無関係にこの日程で小淵沢に泊まる予定を組んでいたのである。
それは、小淵沢に住む浅川嘉富先生に会うという、我が家の長年の夢を実現することだった。
話せば長くなるが、実は私は比較的近年の結婚するまで浅川嘉富先生のお名前を知らなかった。
私の妻の方が先に浅川先生の「霊性の目覚め」
の読者で知っていたのである。
この本の中に、実は保江邦夫先生が付き合うようになる3回の臨死体験者で有名になった木内鶴彦さんの、何十年も前の木内鶴彦さんの1回目の臨死体験の話が出ていたのである。
だから、結婚後それを読んで、浅川先生と木内さんの名前は知っていたのである。保江邦夫さんが、ガンで臨死体験する遥かに前のことである。
そんなこともあって、我々はその2日間で小淵沢に住む浅川先生の徳之蔵へ出かけたのである。そういう日程を組んでいた。
もし父がその時に亡くなれば、通夜葬式で忙しくなり、行くことが出来なかっただろう。
私の弟夫婦に車で徳之蔵の屋敷までへ連れて行ってもらった。
屋敷へ行ってみると、最初は徳之蔵の店を仕切っている息子さん一人しかおられず、訪問者は我が夫婦だけだった。
当然、浅川先生の姿はなかった。
館内を息子さんに案内していただき、訪問者名簿に名前を記入し、内部のボリビアの画家の絵を見たり、いろいろ中を見ていくうちに、喫茶ルームがあった。
浅川先生も不在のようだし、ほかにすることはないから、二人で喫茶室でのんびりコーヒーとケーキセットを頼んで過ごすことにした。
「まあ、なんの連絡もしないで突然行ったから、会えないのはしょうがないかな」
と思って、ぽつんと二人だけで、ケーキとコーヒーを飲みながら、館内をみていた。
ケーキを食べ終わり、コーヒーも飲み、いざこれからもう夕飯を食べに帰ろうかという時になった。
突然、浅川先生が家の方から出てきてたのである。
「もしよければ、お話しましょうか。こっちへ来てください」
ということで、講演会場のような広間に通されて、先生のお話を聞くことが出来たのである。
そこでは、度肝を抜く様な、威圧する大きな目の龍神様の大きな絵のある広間であった。
そして、そこで私と妻と浅川先生のたったの3人だけで、何十分か話をした。
まあ、話の内容は、
「私の本を読んだことがありますか?」
ということだったが、私が
「昔の本はいくつか持っていて、読みましたよ」
と答えたのだが、浅川先生が、
「この世の人は何も知らない。俺のもっと新しい本を買って読め」
ということだった。
だから、そこで販売中の本をさすがに全部は予算オーバーで買えなかったが、数冊買って帰ったのである。
そして、それではといって我々は帰ったのである。
帰り際に、浅川先生がスピリチュアルパワーがあるから買えと言った、バラの写真の高価なカレンダーを3本買って帰った。
浅川先生自慢のカメラの作品である。
こうして、無事にここ阿南の家に戻り、その後の父の様態が安定するのを確認できるまで、いつでも葬式に行けるようにしていた。
その後、年内はなんとか持ち応えそうだということで一段落した頃、我々の浅川先生の徳之蔵への訪問のことや浅川先生の著作や内容などを早速、保江邦夫先生にメールしたのである。
すると、
「浅川さんのことは全く知らなかったが、機会があればぜひ一度突然訪れようと思います」
との趣旨のお返事を頂いたのだった。
それが11月30日土曜日の夜のことだった。
その時にいっしょに送った写真がこれだった。
本にサインしてくれている浅川嘉富先生
とまあ、こういう出来事があったから、今年6月早々にこの浅川先生と保江先生の対談本が来たときは、非常に期待したのである。
ところが、ところがである。
まず序文を見ると、なんと、今回の対談は、明窓出版の社長さんが企画したことで、会うまで保江先生は浅川先生のことはまったく知らないと書かれていたというわけだ。
まあ、私の性格上、一応その出版社にも問い合わせたところ、なんと
「私のブログの記事を見て企画した」
というのだった。以下のものらしい。
2019年 08月 27日
2019年 08月 30日
というわけで、
「いや〜〜、なんか変だな」「なんか違うな〜〜」「どうしちゃったんだ、保江先生」
というわけで、後味の悪い新書に対して、ちょっとすぐにここで紹介するのは気がひけるなあ、と思って時間をとったのだった。
しかしながら、思い出せば、私が保江先生と対談してこの本
を出した頃から、その傾向は出ていたのである。
私はこの対談に際して、保江先生の出した過去の本と論文の9割は集めて読んでいったのである。
だから、この対談で私が取り上げた、岡潔とプティ博士のウンモ星人の話と湯川秀樹の素領域理論の話は、私が読んだ保江先生の本で見た限り、私の知る限りでは、保江先生の話の中では、これが最初であり、それまでのどの本にも書かれたことがなかったことを知っていたのである。
特に岡潔の話と、ウンモ星人の科学者がいうこの世とあの世のネットワークの話や、湯川秀樹の素領域理論の話は、この対談で初めて出たことである。
もちろん、保江先生個人的には、京大の大先輩である岡潔や修士論文のテーマであった湯川秀樹の素領域理論やあの世とこの世のネットワークの話などは知っていたに違いない。
しかし、私が保江先生の著書群の長が〜〜い長が〜〜い続き物の一大自伝の最初からその時までの物語を読んだ範囲では、保江先生は物理は終了してリーマン面のあっち側に行ったから、物理はもうしないという話だったわけだ。
事実、私が対談したときも本人がそう言っていたのである。
それで、私は、「それは同じ理論物理学者として非常に残念だから、ぜひ物理に戻ってきてほしいですよ」と直に言っていたわけだよ。
すると、その年の夏(我々の対談はその年の春4月28日のこと。出版は編集に時間がかかり約1年後)、保江先生は、京大からお呼びがかかった。
かつて私が何度か講演し、お会いしたことがあった、京大の基礎物理学研究所の村瀬雅俊先生だ。
その講演会場への道すがら、湯川秀樹が歩んだという哲学の道を歩くさなかで、保江先生は「素領域理論のことを思い出した」という並行宇宙へ飛んだ。
そうして、我々の対談で湯川の素領域理論のことを議論したことはすっかりふっとばして、哲学の道で思い出して大発見したことに変わったのだった。
そういう内容が書かれたのがこれだった。
まだ、これには私の名前が出てくるから良いが、その後どんどんその歴史が好都合に変わってくる。
そこで、時系列に詳しく語ることが売りの保江先生の本(一種の自分の体験日記のようなものですな)が、時系列が曖昧になっているということに対して、私は個人的に非常に謎を感じていたわけだ。
何かおかしい!
と。
これが単にほんの売上のためとか、はっきりした目的があってのことならまだ分かる。
しかしながら、そうではなく、自分が本気でそう思って書いているとしたら、これはかなり困ったことだろうなと思っていたわけだ。
ところが、どんどん湯川秀樹の素領域理論の話で盛り上がっていくうちに、どんどん話の歴史が書き換わっていく。
え?一体どうなっちゃったの???
というのが俺個人の感想なのだ。
保江先生の「神の物理学」
に至っては、自分が湯川秀樹を超えたことにまで昇格してしまった。これは面白い本なだけに実に痛い。
まあ、一般に素粒子論者は、アロガントといって、日本人的ではない、傲慢な(過保護で育った偽ユダヤ人的)性格の者が多い。
だからというわけではないだろうが、保江先生のこの本も徐々に素粒子論者の性格が出てしまったようだ。
まあ、そういう部分は俺にはどうでも良いが、実際に起った歴史が書き換わるというのは困る。
そう思っていると、最近のYouTubeでは、大阪の霊能者、リアル神様とかいうやつのせいでかどうか知らないが、歴史を書き換える、歴史を覚え違えることが、平行宇宙へ飛んだという言い回しに変わってきたのである。
いや〜〜、これは困る。
我々の歴史は「君の歴史」となり、自分の変えた歴史は「僕の歴史」となるわけだ。
どうも昨今のアメリカの歴史改変運動、モニュメントや銅像破壊、こういうのは同じ様な原因に端を発しているように見える。
どんな痛い歴史であってもそれを歴史は歴史として認め保存する。
こういう気持ちが大事だと我が国の歴史と伝統は物語ってきた。
だから、「口伝」という文化が残り、歴史的生き証人の継承ということで、武内宿禰という役職が生まれたのである。
だから、第73世武内宿禰が生まれたわけである。
今の自分たちのために昔の歴史を今の価値観から書き換えようとするのは、まさに中国共産党が中国の本当の歴史を捏造し書き換えたのと同じ過ちをすることになるのである。むろん、韓国は中国共産党と同じ過ちを犯してきた。
こういう人たちには、いましか存在しないことになり、歴史が無くなる。刹那の民族になる。
ユダヤ人は、「自分たちはどこから来て、どこにいて、どこへ行くか?」という、過去、現在、未来の時系列を最も大事にする伝統を持っていたはずだ。
が、どうやらいまそういう歴史破壊運動を後ろから金で支援しているのはそういうユダヤ人のようっだ。ビル・ゲイツ、ジョージ・ソロス、ウォーレン・バフェット、こういった大富豪である。
話がちょっと逸れたが、歴史の改変をパラレルワールドだという安易な立場は非常に危うい。
これと同じ危うさを最近の平行宇宙に凝る保江先生に対して俺は危惧するわけである。
さて、だいぶ長い前置きになってしまったが、それがこの本である。
この本のどこかに、浅川先生が明かした、富士山大噴火の予言が出ている。
私と同じいまや貧しい山梨県人の浅川嘉富先生の話は実に明快である。本物だ。
それに対する、いまやバブルに沸く岡山県人の保江邦夫先生の話は軽い。だいぶ偽物感が出るようになってしまった。
やはり門人のヨイショや、自称霊能者との安易な対談本ばかりで、一種のタレント化してしまったのかもしれない。
金ができたら、後は女。
まあ、俺の個人的印象では、佐賀の鍋島の末裔の裏天皇とかいう奴の悪影響だろうナ。
おいお前、裏天皇かなんか知らねーが、田舎のマザコン理論物理学者を銀座の最高級バーなんかへ連れて行くなよ!
味しめちまうぞ。この野郎。
俺のように、アメリカ一の美人のメッカ、ユタに4年過ごした俺のようなやつでないと、ちょっと無理だわ。
とまあ、そういう感じで、この本を見ていると、アマゾンのコメント欄にはやはり俺と同じように保江先生の変貌に危惧する意見が多くあった。
やはり普通の人には分かるのだろう。保江先生の反省を期待したいところですナ。
いやはや、まさに真夏の夜の夢。
たけき者もついには滅びぬ。
弥栄!
おまけ:
実はこの我が家の徳之蔵訪問には、後日談があった。
我々が帰宅後、突然、浅川先生から電話が入っていたのである。我々が帰宅する前に入った電話の留守録だった。
そこで何事かと思い聞いてみれば、「私に話したいことがある」というのだった。
そこで、私が浅川さんの家に電話すると、すぐに浅川先生が出てきた。
「話とは何でしょうか?」
と私が聞くと、なんとこんな話だった。
我々が徳之蔵を出た後、ふと自分の書斎に戻ると、いつも何も置かない自分の机の上に、ぽつんと1冊本があった。
そこで、出版社からの献本が来たのかと誰の本だと思って眺めてみると、結構古い本だった。
そして名前を見て驚いた。それはさっき訪問者名簿で見た、私の名前と同じだった。
私の「ニコラ・テスラが本当に伝えたかった〜〜」という最初の本だったのだ。
それで、我々は別の大広間にしか行っていないし、すぐに帰ったから、後を追いかけようとしたが、もういなくなったので、帰るまで待って電話したが、まだ帰宅していなかったということだった。
「こんなことは初めてだ」
と浅川さんはおっしゃった。むろん、私も初めてである。
きっと龍神様のお力なんでしょうね
と俺は言ったと思う。私にはそういう力はないですからと。
実に奇妙な出来事だった。
実は、私の徳之蔵訪問をずっと秘密にしてきたのにはわけがある。それは、我々が訪問すると、私のブログのファンが一気に徳之蔵を訪問することになり、そこが大忙しになって崩壊してしまうかもしれない、という危険性に危惧したのである。だから、いままでずっと拙ブログにもメモしなかった。
しかし、もう保江邦夫さんが本を出してしまった以上、徳之蔵が破滅的に大忙しになるだろうことは明白だから、もう私が秘密にする必要はないということで、今回やっとメモしたのである。