みなさん、こんにちは。
池原止戈夫博士(1904年4月11日 - 1984年10月10日)についてお話ししています。
(右が池原止戈夫博士)
池原先生は、ノーバート・ウィーナー(1894年11月26日ー1964年3月18日)

の最初で最後の日本人の弟子でした。
このテイク6では、
池原止戈夫著「アメリカ学生生活」(小峰書店、東京、1947年)を基にお話ししています。
池原止戈夫先生の履歴は、おおよそ次の通りです。
神戸一中を大正11年に卒業。大正11年6月に渡米し、ラトガース・スクール(ラトガースカレッジ)に入学。大正12年6月に卒業。大正13年春、シカゴ近郊のメイウッド市高校に再入学。大学入学必須科目を受講完了。大正13年10月にM.I.T.に入学。昭和3年6月にM.I.T.の学部を卒業し学士号取得。昭和3年10月にM.I.T.大学院に入学。数学専攻。昭和3年11月から化学のあと物理の助手(いまでいうTAやRA)になる。昭和5年6月にM.I.T.のPh.D.取得。いまでいうポスドクになる。昭和9年3月大阪帝国大学理学部物理教室講師。8月から数学教室講師。昭和19年6月東京工業大学助教授。後、教授。
池原止戈夫先生は、ノーバート・ウィーナーが開発したタウバー型理論をリーマン予想の証明に試みた最初の重要な数学的貢献で博士号を取得しました。
博士号の研究。
IKEHARA, Shikao. An extension of Landau's theorem in the analytical theory of numbers. Journal of Mathematics and physics, 1931, 10.1-4: 1-12.
帰国後最初は大阪大学の物理の講師、その後数学の講師になりました。その後に東工大の数学部の教授になり、終生そこで教鞭をとりました。「アメリカ学生生活」は、昭和22年(1947年)に出版された本です。
ぶっつけ本番で録画しているため、風が強く、風の音が入ってかなり聞き取りにくい部分がありますが、ご了承ください。
一応、もふもふふぁーやスポンジを使って雑音は弱めることを試しました。
令和2年6月5日収録。阿南市中林海岸にて。
ウィーナーについて1/ウィーナーに日本人の弟子がいた?/令和2年6月5日収録テイク6
もしこの池原止戈夫先生のアメリカ体験が、旧日本軍の司令部によく知られていれば、我が国がアメリカ合衆国と戦争することはなかったのかもしれない。
そんなことを思い起こさせる本でした。
ウィーナー先生は、1935年に日本経由で中国旅行を行いました。最初の訪問地の我が国では、池原先生が横浜で出迎え、日本国内を案内したそうです。
特に東京大学と大阪大学で講演を行いました。
中国では、李博士が出迎えましたが、この李(ユク・ウィン・リー)博士と池原先生がウィーナーの唯二の東洋人の大学院生でした。
李博士は有名な天才工学者にであり、多くの電子装置を開発しました。

(一番右が李博士)
この1930年代は、アメリカ合衆国では、東洋人は米白人との婚姻は法的には認められておらず(むろん、例外はある)、人種差別が歴然として存在する国の一つでした。
そんなわけで、日本人の池原先生は永久職(テニュア)のある職が得られる日本へ帰国することになりましたが、ウィーナーは非常に残念がったそうです。
おもしろいのは、池原先生は研究の上ではウィーナーの学生でしたが、自分が一番好きで、交流したのは、つまり、一番中が良かった先生は、後に米軍産複合体を生み出すことになった、あのバネバー・ブッシュ博士
だったそうです。
というのも、池原先生のPhDの研究は純数学で、ウィーナーのタウバー型定理(ウィーナーにはタウバー型理論の数学の教科書がある)をあのリーマン予想の証明に使うというものでした。
実は、リーマン予想の解決に日本人として最初にチャレンジしたのが、この池原止戈夫先生だったのです。
ウィーナーによれば、当時、欧州のリーマン予想の大家、エリ・ランダウ博士が、彼らの研究を全く認めないという態度だったようですが、自分のグループがそれを拡張できる目処がつくと、態度が豹変し、ウィーナー=池原の定理を拡張する論文を書きました。
それがこれでした。日本にも紹介されています。
私の個人的見解では、最近なくなったフリーマン・ダイソン博士が若い頃リーマン予想を証明することに挑戦したそうですが、それがこのウィーナー=池原=ランダウの理論だったのではないかと見ています。
そんな数学で博士号を取得した池原先生でしたが、アメリカの高校では、化学、物理、生物も学びました。
池原先生は物理や化学も得意だったそうで、M.I.T.の大学院に入ってすぐに、化学教室の助手として働いています。
そして、その後は物理学教室の助手としても働いています。
その時、バネバー・ブッシュ博士と知り合ったようで、非常に気心の知れた関係になり、ブッシュ博士からはかなり可愛がられたようです。
そんなわけで、池原先生は、指導教官のウィーナーとはあまり理解し合えなかったが、ブッシュとは非常に気があったと書き残しています。
事実、池原先生の「アメリカ学生生活」の最後から二番目の節は「ブッシュ博士」となっています。最後が「クーゼヴィッツキイ」というロシア人指揮者の節になっています。
その「ブッシュ博士」にはこうあります。
学生時代にまだ数学の力が足りなかったのでブッシュの講義を聴きたいと考え聴講することを許してもらった。
出席したのは電気回路の演算子法の解に関するもので、出版された本のプリントで学んだ。
教室へ行ってみると先生がいつも先に来ていて、本館前の中庭を見下ろしていた姿が目に映る。
いつも誰も来ないのを幸いに恐る恐る質問すると、面倒臭がらずに教えてもらえたが、今になっては随分迷惑をかけたと考えている。
ある時のこと、簡単な積分方程式を書いて、君等はこれが解けるかというと、学生は「シュア!(sure!)」、すなわち「もちろん出来ますよ」と、答えたところ、先生は笑いながら、次の話をしてくれた。
先生が若かった頃、数学の先生をしていたが、講義の前夜、ダンスに遊び疲れて教室へ行ったところ、これが解けないので、一生懸命に黒板に向かって考えた。
ようやくのことで、出来たので、振り向いてみると、次の時間になっていたので、誰も教室にいなかった。
M.I.T.でよくできる学生は4年の間に、バチェラーとマスターと両方とも、とるのがいるが、私が在籍していたときも物理でこのコースをふんだのが、電気科で学位論文を書き上げて、ブッシュに提出したところが序言の第1頁に鉛筆で大きな十字を書いて突き返された。
その学生は、書き直して出していたが、またまた、突き返されたので、とうとう学位がとれなかったことがある。
なかなか厳しいこともあるが、親切な人で私もいろいろ頼み事をしたことがある。
物理で助手をしていた頃の、ある春の朝、土曜日だったので、のんびりと自分の研究室へ行くと、同室のローゼンが、ブッシュから、二度も電話がかかってきたと知らせてくれた。
当時、電気の教授をしていたブッシュへ恐縮して伺うと、「A君はこの頃、欠席しているが、どうした」と案じて聞いた。
2,3日後に会ったら、「A君を見舞いに行ってきたよ」と伝えてくれたが、1日本人にも監督の責任を感じてかくも気にかけたことがある。
1934年6月に、10年間世話になったM.I.T.に別れを告げることになったので、まず第一に尊敬しているブッシュ先生にお別れにいった。
副総長室へ入ると、
「何しに来た」
というので、
「今度、大阪帝国大学に行きますので」
と、お別れに来たことを伝えると、
「そんなところ聞いたことがない」
「いずれ、お耳にお入れいたします」
と、約束して帰ったのである。
帰朝後も、ブッシュのことはいつも心にあったが、先生の偉大な指導力はアメリカを世界一の文化圏にするために深い影響を及ぼしているが、詳しいことは時がたつにつれて明らかになるであろう。
その後、このヴァネヴァー・ブッシュがロスアラモスで原爆開発や兵器開発の科学部門のボスになり、文字通り、米軍産複合体の最高責任者になり、B29の開発や電子計算機の開発や原爆開発を指揮し、それが我が国に使用され、幾多の甚大な犠牲を生んだという歴史につながったわけです。
はたして、池原止戈夫先生は、そういうことをご存知だったのだろうか?
すくなくとも、このお別れの時までにはそういう未来は予測できなかったにちがいない。
(完)
【拙ブログ2】
【参考文献】
池原止戈夫著「アメリカ学生生活」(小峰書店、東京、1949年)ノーバート・ウィーナー著/池原止戈夫、彌永晶吉、室賀三郎訳「サイバネティックス」(岩波書店、東京、1957年)
ノーバート・ウィーナー著/池原止戈夫訳「ノーバート・ウィーナー自伝」(鱒書房、東京、1956年)
ノーバート・ウィーナー著/鎮目恭夫訳「神童から俗人へ」(みすず書房、東京、1983年)
ノーバート・ウィーナー著/鎮目恭夫訳「サイバネティックスはいかにして生まれたか」(みすず書房、東京、1956年)
フロー・コンウェイ、ジム・シーゲルマン「情報時代の見えないヒーロー」(日経BP社、東京、2006年)
ところで、(完)まできたものは、最初から通して聞くことをお勧めします。