藤原直哉の「日本と世界にひとこと」
みなさん、こんにちは。
さて、最近知った大本教の信徒で経済アナリストの藤原直哉さん、
「眼前に広がる全世界の立替え・立直し 〜出口王仁三郎が預言した日本と世界の未来〜」経済アナリスト 藤原直哉氏
「眼前に広がる全世界の立替え・立直し 〜出口王仁三郎が預言した日本と世界の未来〜」経済アナリスト 藤原直哉氏
令和2年3月時事解説・時局分析|藤原直哉理事長(第49回NSP時局ならびに日本再生戦略講演会)
実に真っ当な考え方をする経済アナリストだと思う。
テレビマスゴミに出る偽物、つまり、常に権威や金持ちに迎合する上から目線の経済アナリストたち、とは一線を画しているようだ。
私自身は金儲けや経済にはまったく関心がない。
だから、私個人に対してはどうでもいい話なんだが、一般の人にはかなり示唆的な話だと思う。だから、一応いくつかメモしておこう。
ところで、こういうふうな放談的な、あるいは、説話的なYouTube番組を、私がやっても良いと思っている。
たぶん、その辺の人の話よりは遥かに美声かつ面白いだろうとは思うが、時間を取られるので、できる限り、ここに執着しているわけだ。
いまのところは、自分で主張するより、むしろ人のものを取り上げてメモする方でやっていくつもりである。
が、いつの日か、私の声か顔のYouTube番組も現れる日も来るかもしれない。
いまのところは、昨年の一昨日に行った武内宿禰との講演会のものだけである。
では、まずはこれ。
(あ)藤原直哉の「日本と世界にひとこと」 2020年4月1日 一人ひとり自分の看板を上げよ
(い)藤原直哉の「日本と世界にひとこと」 2020年4月15日 新型コロナは速度が速い
(う)藤原直哉の「日本と世界にひとこと」 2020年4月22日 悪代官と水戸黄門
(え)藤原直哉の「日本と世界にひとこと」 2020年4月29日 問題先送りが終わるとき
(お)藤原直哉の「21世紀はみんながリーダー」 2020年4月29日 身の回りの情報共有を
まあ、私は経済学者でも、経済アナリストでもないが、もう一度、
「どうしてお金というものができたのか?」
という問題に戻って考えるべきだろうと思う。
「お金」なるものが誕生した時というのは、どういう時代だったか?
なぜ「お金」は必要だったか?
そもそもお金ができる前は、物々交換であった。
そのその太古の時代には、
いつ(When)、どこに(Where)、だれがいて(Who)、何をしているか(How)、何を考え(Why)、何を持っているか(What)、
つまり、いわゆる「5W1H」が分からなかった。
だから、それを知らないで、物々交換するには非常にリスクがあった。だから、その間自分が持つ物資を運搬するのは大変だから、「その代わり」になるものを必要とした。
西洋では、それが金のブレスレットになり、我が国では、木簡になった。
しかし、いまやスマホかパソコンかタブレットがあれば、そういう情報交換ができる。
つまり、いきなり物々交換の交渉ができる。
一番流行っているのは、SNSにおける親父と若い女の子の性交渉だろう。つまり、女性器と男根との物々交換である。
昔なら、ガールに出会いたければ、ガールのぶらつく場所までいかなければならなかった。
それができないから、後ろから前川文科省事務次官が公費を使ってガールズバーで行ったわけだ。
しかしいまなら、スマホでSNSで交流できるわけだ。
つまり、情報を得るのにお金が必要ない。
いまなら、太陽電池をスマホに繋げば、基本的にはあまりお金がいらない。スマホの現物を買うのと通信費程度である。できたものを使うという意味あれば、ほとんどお金がかからなくなっている。
もし人間がテレバスを使えたら、情報交換にまったく金が必要ない。
物々交換の前段階としての、自分が欲しいものと相手が欲しいものとの確認作業=情報交換、これのためにこれまでの文明は相当な労力を要したのである。
昔なら、自分が書いた原稿をわざわざ電車に乗って、出版社まで持ち運ばなければ、漫画ができなかった。
しかしいまなら、自宅で作った漫画の原稿をpdfにしてインターネットで転送すれば終わりだ。電車や徒歩は必要ない。
フェイスツーフェイスもネットでできる。
つまり、いまや我々の世界は、お金を本質的に必要としないのである。仮想通貨すら必要ない。仮想通貨もビットコインもお金にすぎない。
もう「お金」は本質的ではない。お金の元金保証の「金=ゴールド」も必要ない。
要は、物々交換さえできれば、それでOKなのである。
どこかのお店で飯を食いたい。ワカメうどんを食いたい。
そういう場合、「自分はいまワカメうどんを食いたい」と言う情報をネット上の「どこか」に上げる。
その代わりに「自分は何を持っている。何ができる。何が余っている」とそこに「情報添付」する。
すると、「わかめうどんは作れるが、その添付情報が必要だ」という人がいれば、そういう人が交渉相手になる。
自分の身の回りにそういう人同士がいれば、ワカメうどんを出前してきた人がそれを食べる人から必要なものを受け取ることができる。
これで物々交換が終了するわけだ。
一旦、その間でお金を通じてお金による売り買いは必要ない。
つまり、いまの金融を維持してきた一番の原動力は、実は情報不足なのである。わざと不便にする。不便にすればするほど金が儲かるのである。
はっきりいって、親父が老衰で死んだとき、葬式代と坊さんのお経や戒名代と火葬までに結構お金がかかった。
しかし、もし武漢コロナで死んだら、病院が勝手に収容し、地方自治体がお骨まで焼却し、ほとんどただで骨壷になったのである。
つまり、人の死も、個人の問題であれば、お金がかかるが、それが他人も巻き込む一大事だとみなされればただになるのである。
たぶん、志村けんも岡江久美子も家族はほとんど葬式代がかからなかったはずである。
もし普通に葬式をあげたら、彼らならかなり莫大な葬式代がかかったはずなのである。
ここに大きな金融世界の秘密があると私は考える。お金というもののトリックがあるのだ。
普通に個人として死ねば、地方自治体も周りの人もまったくその情報すら必要としない。だから、物々交換の対象になっていない。
したがって、何から何まで、その死者の遺族が全部葬式から火葬までを取り仕切る。葬式屋やも火葬屋も坊さんも基本的には他人事で無関心。
しかし、その死者が重篤な危険なウィルス感染者なら、周りの人も地方自治体も葬式屋やも火葬屋も坊さんも全員が無関心ではいられない。
きれいに死んで火葬され、危険なウィルスが滅菌されたという確認がほしい。
だから、その死者の家族と地方自治体が物々交換を行ったわけだ。その結果、すべてがちゃらになる。
この武漢コロナの葬式の場合は、周りのもつ恐怖心が、こういう物々交換のきっかけになった。
しかし、この原理は普遍的なものなのである。
つまり、人々が常に自分の生き死にのかかるような真剣な取引を行う状況が作れたら、お金は必要ないのである。
おそらく、武漢コロナ患者の葬式代ただというのは、そういうことを証明していると思う。
私の個人的考えでは、人類は基本的に金など必要としないのである。
ほしいのは現物やリアルなサービスである。
必要な時必要なものが手に入りさえすれば良い。
したいことがしたいときにできれば良い。
逆に、人は自分がしてあげたいということが必要なときにできれば良い。
欲しい物、提供を受けたいもの、これと、ほしくない余っているもの、提供できるもの、があれば、その間を情報交換できれば、物々交換ができるのである。
労働も物の一つである。提供できる。
だから、私は子供の頃から、あまり金を稼ぐという行為に馴染めなかった。
それよりは、なにか生み出すこと、行動、行為、アイデア、概念、理論、。。。こういうものに価値を感じたのである。
いまの金融は、基本的に2000年前に中東に始まったユダヤ人のファミリービジネスにすぎない。たいした意味はない。
いくら経済理論で武装しようが所詮はそれだけのことである。
とまあ、後半は私個人の妄想だから、スルーしていただければ幸いである。