みなさん、こんにちは。
さて、今回のものは私の自分自身への個人メモ。備忘録である。だから、スルーでよろしく。
昨日メモしたように、
人はいつアセンションするかわからない。
昨年末まで志村けんも岡江久美子もまさか自分の運命が今年で終わるとは思っていなかったに違いない。大半の人はそうだ。
だから、私は、いつもマハトマ・ガンジーの言葉:
明日死ぬと思って生き、永遠に生きると思って学べ
をモットーにしている。人にもこれをオススメしている。
一方、保江邦夫師範のモットーは、
明日できることは今日するな、今中に生きて遊べ
である。
まさに双対的なモットーだが、ガンジーはインド仏教、保江師範はマリア様のキリスト教。
たぶん、根は一つ。
そんなわけで、私もいま生きている内に(つまり、今中)、自分の生誕からどういうふうに姿かたちが変わってきたかを一応メモしておこう。
なぜなら、そういうことは有名人でもなければ、死んでからその人の生前を偲ぶなどということはしてくれないからである。
自分で自分の過去生を見直す。これだ。
というわけで、まずはすでにいくつかここにメモしたものから再掲する形だが、写真を並べて置くことにした。
(あ)生誕すぐ
当時は戦後12年目の父が独立したばかりの頃の昭和32年(1957年)10月13日に私は生まれた。
家は4畳半程度のあばら家で、そこでは出産できず、近所の比較的裕福なお店をしている人の家の部屋を借りて産婆さんの手により生誕。
体重は3200g。安産。
(い)生後10ヶ月目
その頃私の両親はまだ貧乏で食料が手に入らず、母の乳が余り出なかったという。
それで、やむなく米の研ぎ汁の重湯で育ったらしい。
だから、私は非常に背が低かった。
髪の毛はかなりの赤毛に近い茶髪。
(う)3歳、父と過ごせた頃
我が国の復興が板につきはじめ、我が家の経済も徐々にうるおい始めた頃。
たぶん、千代田湖。
父33歳、俺3歳
確か我が家の電化製品を最初に買ったときの懸賞で、遊覧ヘリコプターのチケットがあたった。
それで、山梨の上空を遊覧。
このときに見た富士山の山頂はいまもしっかり記憶にある。
自宅のスクーター
しかし我が国が高度成長を遂げ始めたこの頃から、我が家も猛烈に忙しくなり、もう二度と父といっしょにこういうふうに過ごせる時代は戻らなかった。
その後は、自分の勉強スポーツに集中していく。
(う)高校生の頃、1975〜1976年
一気に飛んで、私が高校生でサッカー選手の全盛期の頃。
甲府南高校の伝説の時代
17歳
(あの3歳頃の顔とは似ても似つかないが、
第二次成長期に我が家の兄弟はみなぐっと自然に鼻が高くなり、
丸顔から面長になり、少年の顔、そして青年の顔へ
と成長したのである。)
一番右が私
右から2番めが私
韮崎高校と通算1勝1敗。高校総体県予選3位。
(え)15年前、2005年
阿南高専サッカー部を全国高専サッカー選手権8位入賞に導いた頃。
(お)5年前、2015年
ニコラ・テスラの本を翻訳していた頃
(か)去年の暮、2019年11月
父との最後のお別れ
光陰矢の如し
少年老いやすく 学成りがたし
今年はたくさん論文を書きたい。
が、そう思ったところで、それができなくなるっていうようなことが起きるわけだ。
だから、人生は、できることは先にやっておく。
美味しいものは食べられるときに食べておく。
据え膳食わぬは男の恥。
やったもん勝ち、食ったもん勝ち。
ファースト カム、ファースト ウィン。
ほんと2014年のワールドカップブラジル大会に行く道中、これを痛感したからな。実感したよ。
人間万事塞翁が馬。
些細に見えてもできることからやっていく。
これって、試験でも同じ。できそうなもの、簡単なものから先にやっていく。
難しいことも簡単なことの組み合わせでできていく。ステファン・ウルフラムの言う通り。
というわけで、まずはいまできる範囲で、私のこれまでを振り返った。
どうやら私はネオテニーではなかったらしい。
あの3歳のままの顔で成人になったら、ちょっと困ったかも。