
みなさん、こんにちは。
笑いは百薬の長。笑う門には福来る。あまりの恐怖で笑う他はない。笑いは本物に限る。偽笑いは吉本におまかせ。
以下は大人の辛ジョークである。決して信じないでくださいヨ。本気にしないことが肝心。

どういうわけか、最近まで長嶋茂雄さん

の息子の長嶋一茂さん

が芸能界を席巻しているようだ。
もう54歳なのか? 54歳にしては若いのでは?
我が家には一つの都市伝説がある。それは、
長嶋一茂は加山雄三の息子ではないのか?
というものだ。
あまり、一茂は長嶋茂雄に似ていないのである。

むしろ、加山雄三にずっと似ている。

失敬。あくまで、これはジョークの一種であることをお忘れなく。
ところで、私はかなり前からそう思っていたのだが、あまり真剣に考えたことがなかったが、日本男児の美男子や好男子の顔が好きなのである。好きというよりは親近感を感じるのである。
少年の顔ではなく、三船敏郎や仲代達矢とか三國連太郎、そういう正統派のハンサムな日本男児の「顔」が好きなのである。
別に私はホモでもないし、GLBTとかLGBTとか、そういう趣味はまったくない。興味もない。
男としては成熟した美女が好きだ。少女よりは熟女派である。
しかしながら、どういうわけか、加山雄三とかそういう昔のイケメン的日本男児の顔が好きなのである。
残念ながら、私自身の顔は一重で母親の方のモンゴルのチンギスハンのような目をもらってしまったせいで、あまり万人受けするイケメンではなくなった。
私がどうしてそう思うようになったのか?
長らく考えていたが、やはりそれは、私がハンサムな日本男児に私の父親の面影を感じたからだと思うようになったのである。
運良くか、運悪くか、わからないが、私の父はその時代の山梨県甲府を代表するハンサムボーイだったという。

父33歳、俺3歳
昔の山梨の進学校旧制甲府中学(いまの甲府一高)の1,2の秀才で、スポーツ万能、水泳、サッカー、野球、剣道2段、囲碁将棋2段の腕前だった。骨太で腕っぷしも強く、喧嘩は強く、正真正銘の昔の番長だった。(事実、私は父が脳梗塞で倒れるまで一度も腕相撲で勝てなかった。父はゴルフもシングルだった。私は高校生時代に父からゴルフスウィングやゴルフのすべてを教わったのである。)
しかも女子校生がラブレターを持ち歩くほどだったらしい。しかし、当時は戦時中でそういう素振りを示せば、大問題になる時代だった。
旧制京都帝国大を目指したが、戦争にピッタリ重なってしまったことや、色弱で落とされたのである。
戦後、私の父の一番下の弟さん、私の叔父が渡米し、その後帰国してから東京に出たが、その叔父はそれほどイケメンではなかった。しかし、おじさんは東京でそこそこ成功した。
もし私の父が東京に出ていたらどうなっただろうか?
たぶん、東映とか、東宝とかのニューフェースになったかもしれない。
私は父の家系の井口家の初孫として生まれたので、井口の人たちの皆から可愛がられた。
その人達が口々に話すのが、「お前の父は有名なハンサムだった」という言葉である。
父の学生時代の親友からは、「お前の父は甲府中学や松本高校で1,2位の秀才だった。お前も頑張れ」ということだった。
当時、これは私には非常にプレッシャーになった。
「俺もいつか父のようなハンサムになるのか?」
「喧嘩も強くなって、県下で1番の成績を取らなくてはならない」
だから、その一種の反動として家を継がず、プロスポーツ選手や物理学者になろうとしたのかもしれない。
私は1975〜76年代の山梨県の高校サッカー界では名を馳せることができた。

17歳
(あの3歳頃の顔とは似ても似つかないが、
第二次成長期に我が家の兄弟はみなぐっと自然に鼻が高くなり、
丸顔から面長になり、少年の顔、そして青年の顔へ
と成長したのである。)
どうやら、私の1〜3歳までの物心付く前の生活で、私はハンサムガイを見ると、まるで父を見るように感じるように刷り込まれたのだろうと思う。
むろん、単なるルックスだけのアホ野郎には興味ない。日本男児はすべてが整っていないとだめなのである。
たしか、ボクシングの村田涼太選手が出てきた時も、何か見覚えのある顔だなという印象を持った。
アルバムでみると、やはり村田選手の顔が、私が生まれてまだ間もない頃の私の父の顔によく似ているのである。
だから、やはり遠く古い時代の潜在意識の中に在りし日の私の父の面影が記憶されているに違いない。意識下では思い出すことができないが、ふとした時にそれを思い出すのだろうと思う。
この頃からボールを触っていた。やはり球技に向かったのは生後すぐのインプットのせいだろう。