父の葬儀で忙しかったのとその後の経過観察で外出できなかったのとで、葬儀直前の数日前に急にフレームが折れたメガネ

の代わりのメガネを作りに行けずにいたのだった。今日やっと、メガネを20数年ぶりに作り変えることができた。たぶんひょっとしたらこれが人生最後のメガネになるかもな。
今回、どういうわけか、昼間はコンタクトレンズで過ごし、夜にかけるメガネの右フレームの根本の金属が折れたのだった。徐々に劣化し、回りのフレーム部分はかなりまずい状態になっていたのだが、それをつないでいた内部の金属の根本が折れたのである。そして全部作り治そうか、レンズをそのままにしてフレームの修理をしようかといろいろ迷っていたのだが、まずは先に100均の老眼鏡のフレームで代用しようかとかいろいろやってみたのである。が、うまくいかなかった。そうしている内に父が臨終の知らせが来て、急遽山梨石和へ行ったのだった。
だから、これは一種の「虫の知らせ」のようなものだったのかもしれない。後で分かったが、ちょうど私の右フレームが事切れた頃、父もまた実質上は危篤状態に入ったのだった。
6年前の母の死の知らせは、早朝のたった1発の大雷鳴だった。その頃私は「雷博士」のニコラ・テスラの翻訳本を作っていた。だから、その雷鳴の大きな音に起こされたのだが、それを聞いた瞬間に夫婦ともども母が死んだんだと感じ取った。そしてしばらくして弟から電話で母の死が知らされたのである。
今回も右フレームが折れたというものだったのだろう。
私は物理学者でスピリチュアルではないから、精神的な虫の知らせとか、心の中のイメージというようなものは理解できない。
しかし、かつてのユタ大時代の友人の実験物理学者が亡くなった時も、物理的に奇妙な知らせが来たのである。その時は、洗濯をして洗濯バサミでたくさん密集して干していた洗濯物のうち、中心近くに挟まっていた私がその当時いつもジョギングで着ていた私のブルーのTシャツだけがびょっしょり濡れて水が滴り落ちていたのである。下の床の上に円形の水たまりができるほどに滴っていたのである。
この時、私は当時その友人がアメリカにご主人と住み、ガンを患って闘病していると聞いていたので、その死を直感した。そしてすぐにその知人の友から電話で死を知らされたのである。
こんな感じで私には、気持ちの中の「虫の知らせ」というより、一種の超常現象のような「物理的に明確な形」で知らされるのである。実に不思議である。
ついでに言えば、あの有名ブロガーの裸のグルンバ爺さんこと飯山一郎氏がお亡くなりのときも不思議なことが起こった。いつも洗濯している全自動洗濯機にいつもどおりに洗濯物を入れていつもどおりに洗濯したのに、洗濯機から洗濯されたものを全部出してみると、一つだけ私のTシャツだけがまったく水もつかずに洗えていない。しかもそれだけまだ汗臭い。他のはいつもどおりにきれいに洗えていたのである。
その時、ひょっとしてあのグルンバ爺さんは死んだなと直感したのである。というのも、その飯山氏のブログの最後のものは炎天下で真っ裸で汗だくで日光浴しているものだったからだ。私はあの名古屋で40度を超える暑さの時期だったから、そういうのは熱射病になり、危険だなと思っていたからだ。多分、その飯山氏から私は非常に嫌われていたフシがあるから、気になったのかもしれない。
とにかく、私の場合はそういう形で知らされるようだ。まあ、めったに不幸はないから、いつもというわけではない。
そういえば、ちょっと前にも実に不思議なことがあった。まあ、あまり人様に言えることではないが、朝いつもどおりに目覚める時、右側を向いて眠っていた私の先には妻が寝ていたのだが、私の背中を「起きて」とツンツンと指でつついた女性がいたのである。だから、私は奥さんにツンツンされたかと思って遅れると思って飛び起きた。ところが、目を覚まして見れば、奥さんは逆側に熟睡中だ。
はて?いったいその女性は誰だ?夢か?
という感じのリアルな感触のツンツンだった。だれかの声で「起きて!」と背中の真ん中をツンツンされたのだから、それは飛び起きる。
もっと不思議なのは、奥さんがその前にトイレで起きたとき、私の背中に背中同士が合うかのように、私の真横に寝ている女性を見たというのである。しかも見たことがない女性だったという。顔は見えなかったという。はたしてだれだ?私にはまったく記憶にない。
ひょっとしたら、これもその女性がどこかでお亡くなりになり、私に最後の添い寝をしに来たのかもしれない。実に不思議だ。
矢作直樹先生は「人は死なない」と言っているが、やはり死んでからある時期は、臨死体験の木内鶴彦先生と同じように臨死体験とも既死体験とも区別できない状態を過ごしているのだろう。
父が死んで通夜の後の夜は、夜中にラップ音を聞いたと弟も妻も話していた。だれかがミシミシと歩く音がしたというのである。最近でも、我が家の中でも物理的にカーテンが動くとか、そんなことが起きたようだ。
私が理論物理学者だから、きっとこいつは鈍感だぞ、こいつには物理的に教えなきゃ理解できんぞと思ってくれているに違いない。
まあ、私も保江邦夫博士同様理論物理学者だから、それなりの理論を作りたいところだが、私のアイデアは保江先生の「形而上学的素領域理論」のものとはかなり違う。素粒子論者出身の保江先生が「素粒子論的に場の量子論的に『死後の世界』を捉える」のに対し、私はもっと「物性論的にスピン統計力学的に『死後の世界』を捉える」。
物性論には電荷・スピンの分離という現象があるが、電荷は物理空間を動くが、スピンは情報空間、スピン空間を動くのである。電荷・スピンの双対性もあるから、電荷の動く空間と双対の空間もある。ちょうど電場と磁場の双対性と似たようなものである。
人が死んで、電気の動きが止まる。すると、逆にそれまで電気の電荷に付随して従属していたスピンが自由に動き出す。その空間はどこへでも自由自在に進める。とまあ、こんなイメージを考えるわけだ。
まあ、人はいつか去るものである。だから、いずれその時がくれば、だれにも解ることだろう。
おまけ: