みなさん、こんにちは。
そういえば、武漢コロナ騒動であまりにメモすることが多すぎてETの手も借りたいほどになった。だから、すっかり忘れてしまったが、量子電気力学の巨匠で最後の生き証人となっていたフリーマン・ダイソン博士がついにご逝去になった。享年96歳。ご冥福をお祈りいたします。
この大損じゃなかった、ダイソン博士は晩年はリーマン予想の研究に戻っていた。
巨匠エドワード・ウィッテンのご師匠マイケル・アティヤー先生もご逝去されたし、ダイソン先生もご逝去。ちょっと前にはスティヴン・ホーキング博士もご逝去。
理論物理学の一時代が過ぎ去っていく感じを受けるのはやはり私が理論物理学者だからだろうか?
もしダイソン先生がイギリス人数学者でなく、アメリカ人理論物理学者だったら、たぶん朝永振一郎先生がノーベル物理学賞を受賞することはなかっただろう。
欧州との大東亜戦争、アメリカとの太平洋戦争の最中、日米欧で量子電気力学の理論が独立に研究されていた。日本は理研の仁科研究所の朝永
と木庭。
アメリカはハーバード大の秀才ジュリアン・シュウィンガー
当時コーネル大にいたリチャード・ファインマン。
ほぼ彼らのアイデアが出来上がった頃、終戦を迎えた。
そこにイギリスでリーマン予想を解決しようとしたができずに終わり、別の問題で博士になったばかりの若いフリーマン・ダイソンがアメリカのプリンストン大にやってきた。アインシュタインがいたところである。アインシュタインは1955年頃まで生存していた。
そして、研究テーマを変えたダイソン君は、ハーバードのシュウィンガー、コーネルのファインマンの研究を学び、ファインマンの経路積分表示の量子電気力学、すなわちファインマングラフ:
と、シュウィンガーの発明したリップマン=シュウィンガー方程式:
という波動関数の積分方程式が本質的には等価である。そして、これらはグリーン関数を使えば、見事に1対1に対応させることができることに気がついた。
ファインマングラフを運動量表示のグリーン関数を表すものとみなすと、
これがそっくりそのままグリーン関数の再帰的方程式:
になることを発見したのだった。
このころ、戦後の夜明けが始まり、戦時中の日本で行われた物理研究が海外に知られるようになった。湯川秀樹の中間子論、朝永振一郎の量子電気力学のくりこみ理論や超多時間理論である。
すると、若いダイソン博士が衝撃を受けたのである。実はハーバードの早熟の天才シュウィンガーが行ったこととほぼ同一のことを何年も前に欧米との交流がまったく途絶えた日本の中、それも大空襲で生死の境の中で行われていたからであった。
というわけで、イギリス人数学者のフェアであることを良しとする教育を受けたダイソン博士は、時間的に早い方から、朝永=シュウィンガー=ファインマンの理論の等価性を自分のグリーン関数表示で統一する理論を公表したのである。
The radiation theories of Tomonaga, Schwinger, and Feynman (フリーダウンロード可)
この瞬間、ダイソン先生は「第4人目の人」になった。ノーベル賞は3人までしか授与できない。4人目になるといくら有名になってもノーベル賞は受賞できないのである。
この論文の後、ダイソンは鬼のように量子電気力学の古典的論文を発表し、ダイソンの名前を知らないものは「もぐり」だと思われる時代へと突入した。ダイソン理論を学べば、どうやって天才ファインマンしか分からなかったと思われたファインマングラフを構築したかが学生にも解るようになったのである。だれもがシステマチックに量子電気力学を研究できる時代がやってきたのである。 ちなみに、ここで量子電気力学と言ってるものは、相対論的量子電磁力学のことである。
シュウィンガー積分をフーリエ変換すればすべて自動的にダイソン方程式になる。それが、見事にファインマンダイヤグラムあるいはファインマングラフに対応するというわけだ。
こうして、凡人の我々日本人理論物理学者もかっこいい数式やグラフを扱うことで、
「僕の専門は量子電気力学です」
というと、超天才的秀才君の仲間入りでインテリ女子に持てる時代になったのだった。事実、この頃の東大生は持てた(らしい)。
その後、この相対論的量子電磁力学を非相対論、つまり、遅く動く普通の電子の問題へ退化させても理論がそっくりそのまま成り立つことが分かってきた。
それがいわゆる「量子場の理論」簡単に「場の理論」というものである。これを当時出始めた半導体物理学に応用すること、これが我々の時代の最流行の問題になっていった。この理論的基盤が我が国の半導体産業を生み出し、我が国が弱電の半導体物理学で食っていくことができるきっかけになったのである。
おもしろいのは、この初期に我が国で、戦後初の
国際理論物理学会が開催されたのである。
文字通り、この国際理論物理学会で湯川と朝永他日本の理論物理学者の欧米へのお披露目が行われたのである。これを境に日本人理論物理学者たちが一気に欧米に留学あるいは流出していく。この頃、南部陽一郎博士もアメリカのプリンストン大へ渡米した。
一方、国際政治世界は、米ソ冷戦時代へと突き進んだ。いまの米中冷戦時代に似ている。
さて、非相対論的量子電気力学を固体に応用し、「固体の場の量子論」が出来上がると、今度は未知の現象、超伝導現象へ応用してみたくなる時代に入った。
ファインマンが基礎を作ったコーネル大やその近くのイリノイ大、そして後にファインマンが移ったカルテクことカリフォルニア工科大学、シュウィンガーが基礎を作ったハーバード大とダイソンが基礎を作ったプリインストン大は、物質の場の量子論のメッカになっていった。さらにウィーナーのいたMITが加わった。そして、これらと米ATTベル研究所やIBMワトソン研究所がタイアップし、さらに米軍産複合体を構築していった。
こうして、イリノイのバーディーン、クーパー、シュリーファーが量子電気力学の手法をそっくりそのまま固体の超電導へ応用し、世界で初めて超電導の解明に成功する。これがBCS理論である。1957年のことである。私が生後2ヶ月目のころである。
この研究で、ジョン・バーディーン
は半導体トランジスタの発明でノーベル物理学賞と受けていたから、二度目のノーベル物理学賞を受賞するのである。
こうして、場の理論は、創始者の朝永、シュウィンガー、ファインマンおよびダイソンの手を離れ、完成したものとしてどんどん独り歩きしていったのである。
そして、シュウィンガーの学生だったハーバードの秀才フィリップ・アンダーソンが登場する。そしてご存知のようにいわゆる物性物理学理論、凝縮体物理学の巨匠へと成長するのである。
半導体物理学は、あらゆる分野の装置に応用され、いわゆるハイテク産業の要になっていった。
江崎玲於奈博士がソニーの前進時代のトンネルダイオード、IBMワトソン研時代の分子線エピタキシー(MBE)技術、このMBE技術がその後の半導体の集積回路の基礎になったのである。
LED(発光ダイオード)、低次元半導体、2次元半導体を生み出し、量子ホール効果、分数量子ホール効果、トポルジカル半導体、スピン半導体、。。。あらゆるハイテクの基礎になり、そして最終的に今現在のスマホの時代に至ったというわけである。
しかしながら、当のダイソン先生は全く別の分野へ移っていった。最初はランダム行列の理論である。
この研究ものちのち非常に重要になり、量子可積分系の発見につながっていくのである。
我が国に来た当初はまだ地味で余り目立たなかった天才中国人のチェン・ニン・ヤンは、シカゴ大のイタリア人エンリコ・フェルミの最高の弟子であった。
その後、我が国の渡邉慧先生が構築した量子電気力学の対称性理論、その内の「パリティの破れ」の発見でノーベル物理学賞を受賞し、ベーテ仮説の理論を1次元スピン系に応用して、量子可積分系のベーテ仮説の理論、そして、統計力学との関係がわかり、ヤン=バクスター理論へと引き継がれる。
そうして、C. N. ヤン先生がプリンストン大からニューヨーク州立大ストーニーブルークの新設の物理学部の看板として移った頃、ミズーリからワシントン大に進学しそこを終えたばかりのビル・サザーランドが学生になる。そして、ビル・サザーランドは、ヤン教授の大学院生として、ヤンの発明したベーテ仮説の方法を駆使して、統計力学における2次元の6頂点モデルの厳密解を解くことに成功し博士号をとる。
さらに、サザーランドはポスドクとしてカルテクに行った頃、ベーテ仮説の方法を拡張し、距離の逆自乗則で相互作用する1次元の量子力学系が厳密に解けること発見する。1972年のことである。
この後、ミズーリの田舎育ちの大都市が嫌いなビル・サザーランド
は奥さんと子供を連れて、ユタ州ソルトレークのユタ大学に移ったのだった。この時期に矢継ぎ早に一連のカロゲロ=サザーランド系の研究を行う。
そうとは全く知らず、サザーランドがユタ大の物理学部の真のヒーローであることも知らなかった私が、量子ホール効果で一世風靡していた甲元眞人先生を通じた何かの縁でこのサザーランドの2番めの大学院生になったのだった。1987年のことである。そして1990年に無事PhDとなった。
この間に、このカロゲロ=サザーランド理論とダイソンのランダム行列の間の深い関係が物理、数学、さまざまの分野で波及していったのである。これが今現在、カロゲロ=サザーランドモデルとなる。
最初に人々がこのサザーランドの理論をカロゲロ=サザーランド理論と呼び始めた頃、彼は
「自分の理論に僕の名前をつけてくれるまでに25年もかかったよ」
と感慨深げに話してくれたものである。確か1998年に京都の基研であった頃だった。
そして、昨年ついに、2019年の米物理学会で、数理物理学の世界最高の賞、ハイネマン賞を受賞したのだった。
そして、量子電気力学と場の量子論が理論物理学の標準的教科書的理論になり、かたやダイソンのランダム行列の理論が量子可積分系の標準理論になっていくと、ダイソン先生は宇宙論や生物やさまざまのジャンルに挑戦していった。みなさんの周知のことだろう。
そうして量子電気力学の最後の生き残りになった晩年、学問の扉を叩いた学生の時代の目標だった
リーマン予想の解決
に戻ったのだった。しかし、ついにその目標には至らなかったようだ。
死後、ダイソン先生の机の中から、リーマン予想を解決した論文がひょこんと出てくるとか、そういうことが起これば非常に面白いだろう。
心よりダイソン先生のご冥福をお祈りいたします。
我が日本の朝永振一郎先生にノーベル物理学賞をお譲りくださり、心から感謝しています。
安らかにお眠りください。合掌。RIP.
弥栄!
