みなさん、こんにちは。
さて、このところ私は海外の知人の理論物理学者から、ある日本人理論物理学者のかつての研究論文を読んでみろと教えていただき、それに関連したことを勉強しているところである。
その名前は
渡邉慧(わたなべさとし)
戦前の我が国の理論物理学者である。量子力学と素粒子理論物理学者である。
それでこの渡邉慧先生の昔の博士論文や代表的論文を地道に読んでいたわけだ。
むろん、戦後の我が国の素粒子論物理学者である保江邦夫博士のような代表的理論物理学者や数理物理学者のみなさんもほとんどその名前ぐらいを知っているだけで、あまりご存じない。
だから、幾多ある保江先生のご著書にさえまったく出てこない。まあ、保江先生は量子力学はヨーロッパの物理学者だけが作ったというスイス学派の立場だから、アメリカの学者やロシアの学者や我が国の学者の貢献はどうでも良いという立場である。
まあ、これに関しては保江先生の書物にはいろいろ語弊があったり、誤解もあったり、無知もあるが、それはしょうがない。
実際、私自身昔の日本の物理学者のことはほとんど学ぶ機会がなかったし、戦後の若い世代ほどそういう情報にふれる機会がないからである。というより、そういう理論物理学の歴史を書いた本そのものがないのである。
量子力学に関して言えば、明治開闢以前から我が国の若者たちはすでに大英帝国へ留学していた。だから、当時のヨーロッパの科学技術が大転換しつつある様をつぶさに勉強してきたわけだ。当時の欧州人からすれば、日本人の学者や留学生はたんなる極東からのめずらしいお客様、one of themと思っていただろうが、当の本人たちは必死だった。
そして、アーネスト・ラザフォードの原子核の発見の情報は即座に我が国にも伝わり、原子モデルを構築する世界競争が湧き上がる。そうして、我が国の新進気鋭の長岡半太郎が、原子の土星モデルを理論化する。プラスの陽子の回りを負の電荷をもつ電子が土星の輪っかのように分布するというモデルであった。
このモデルが無名の若き天才デンマーク人理論物理学者のニールス・ボーアに大きな影響を与え、原子の太陽系モデル、ボーア模型が誕生する。そして、1925年の量子力学の発見に進んでいったわけだ。
この部分についてはいくたの量子力学の教科書があり、普通によく書かれている。
まず1900年にマックス・プランクが黒体輻射の理論を導き、光量子が実在であることを証明。プランクの定数を発見。
1905年にアインシュタインが光量子理論を提案。光が量子であることを提唱。
1924年にド・ブロイがド・ブロイ波(物質波)の概念を発見。
1925年にハイゼンベルグが行列力学を発見。ボルン−ジョルダンが完成。ディラックも変換理論を提案。
1926年にシュレーディンガーが波動力学を発見。
シュレーディンガーとディラックが変換理論で波動力学と行列力学が等価であることを証明。
マックス・ボルンが波動関数の確率解釈を提案。
こうして世界中の物理学者の協力と競争のおかげで、あっという間に量子力学の骨格が完成した。
ここまでは保江邦夫先生の量子力学の沢山の本にも出てくるし、普通の量子力学の教科書にも出てくる話である。そして、リチャード・ファインマンの経路積分の発見、最終的にはネルソン-保江の確率量子化の理論までつながっていく。
(あ)ウィーナーの量子力学への貢献
第一の問題は、この中にノーバート・ウィーナー
の話がどこにも出てこないということである。
ウィーナーは14歳でハーバード大に入学し、18歳で博士になり、イギリスのケンブリッジ大でハーディーやリトルウッドやバートランド・ラッセルやホワイトヘッドなどの数学者のもとで学んだ早熟の天才だった。
子供の頃からの哲学が「万物は不確かだ」であり、それを数学者として追求した。その結果、解析学の一般スペクトル分析、確率論のウィーナー過程、ウィーナー積分、などを生み出した。その最初の研究が出始めたのがちょうど1924年頃だった。
ウィーナーの自伝によれば、すでにケンブリッジのラッセルがボーアの原子論を勉強しろと研究会で報告していたという。だからウィーナーも前期量子論には非常に関心を持っていた。
そうした中で、連続スペクトルをもつ粒子運動とはどういうものであるべきかを古典力学的に研究し、その場合は粒子軌道をフーリエ展開する必要があるという思想を生み出していた。
そして、ウィーナーは欧州へ渡航するたびに欧州の数学者と交流を持った。その中に概周期系の理論の
ハラルト・ボーアもいた。このハラルト・ボーアはニールス・ボーアの弟だった。
ところで、このボーア兄弟、私と同じように若い頃サッカー選手だった。弟のハラルト・ボーアは1908年のロンドン五輪のデンマーク代表で銀メダリストであった。引退後数学者になり、デンマークを代表する数学者になった。
そのハラルト・ボーアとウィーナーは非常に研究分野が近かった。仲が良かったようだ。たびたび交流をしている。
そして、1925年ウィーナーがヨーロッパ旅行に行った時、イギリスのケンブリッジに行った後、ドイツのデービッド・ヒルベルトのいたゲッチンゲン大にも立ち寄り、一般フーリエ解析の講演を行ったのである。この時初めて、今では常識になった、周波数と時間の双対性について講演したのだった。
つまり、ランダムな運動の周波数分布は広がり、ウィーナー過程ではホワイトスペクトルになるが、一定の軌道を持つ運動=定常運動の周波数は離散的になる。
この時ゲッチンゲン大の理論物理のボスがマックス・ボルンであった。ボルンは以前からウィーナーと交流を持ち、新進気鋭の天才の数学力や柔軟な思考力を借りたのである。
ボルンの下には、いうまでもなく、たくさんの優秀なドイツの理論物理学者が控え、その中に天才ハイゼンベルクとパウリもいた。
(追記:ついでに付け加えておくと、デービッド・ヒルベルトの下にいたのがルーマニアの裕福な銀行家の息子だったジョン・フォン・ノイマンである。)
そして朝永振一郎の教科書や南部陽一郎先生の本や保江先生の本や普通の量子力学の本にあるように、その夏のスギ花粉症で避暑に行っていた間に行列力学を発見したのである。この思想が見つかったあとボルンは数学者のジョルダンを引き入れて、行列力学の論文を提出したのである。こうして1925年のうちに行列力学が出来上がった。
この翌年1926年にボルンはウィーナーと共著の論文を書いている。
この論文で初めて物理量が「演算子」であるという主張が行われたのである。
しかしながら、どういうわけか、「ウィーナーの量子力学への貢献」はその後無意識的にか意識的にか無視されていくことになった。
1932年に、かたやウィーナーの宿命のライバルになったフォン・ノイマンが量子力学に登場し、有名な「量子力学の数学的基礎」を著した。
その後ますますウィーナーは無視されていくが、1953年にA. Siegel女史と
を書き、その後、1955年に
The differential space of quantum systems
さらに1956年にA. Siegel女史と
を公表した、そしてそれらを1966年にまとめて、
Differential space, quantum systems, and prediction
として出版したのである。この量子力学の確率論的考察に刺激されたプリンストン大のエドワード・ネルソンが、確率量子化の方法を発見し、それが保江邦夫先生に伝わったというわけだ。
にもかかわらず、いまだに(私を除き)だれもウィーナーの貢献に言及しなかったというわけだ。
どうしてなのか?謎である。
(い)渡邉慧の量子統計力学への貢献
渡邉慧先生の名前は、南部陽一郎の本「素粒子論の発展」の文章によれば「正当に評価されていない」残念な例になっている。
渡邉慧先生は伏見康治先生と同年の同級生で、旧東京帝國大学の物理学科出身である。私が最近調べたところでは、祖父が
渡邉國武という人で、この祖父は明治の伊藤博文首相の第4次伊藤内閣の時の大蔵大臣だった。渡邉慧先生の父親は渡邉千冬という人で、大正昭和初期の時代の
濱口首相の時の司法大臣だった。
つまり、渡邉慧先生は日本の保守本流の政治家の御曹司だった。たぶん子爵の一家であった。だから、戦後意識的に戦前の華族は米軍GHQから排除されたという面もあったかもしれない。
(追記:ところで、以下にでてくる豊田利幸先生の追悼文によれば、祖父が渡邉千秋となっている。しかしウィキでは千秋は國武の兄だとある。そして父の千冬は養子とあるから、ひょっとしたら、実父が兄の千秋で、その息子の千冬が弟の國武の養子になったのかもしれない。この辺の事情は今のところわからない。)
渡邉慧先生が、旧帝大東京大学卒業後、理化学研究所で寺田寅彦の指導を受けた。もっとも寺田は午前は東大で教え、午後は理研で実験研究という生活スタイルだったから、東大時代に寺田の講義を受けていたはずである。
この父親が司法大臣の時代に軍部によるクーデター未遂が起こり、その後有名な226事件が起こり、渡邉慧先生の父親も危険な時代に入った。そういう我が国が政治主導の大正デモクラシーの時代から軍部主導の臨戦態勢に移る時代に変わり、若干20歳でフランスのパリのド・ブロイのところに留学したのである。1930年のことである。
そして、ド・ブロイのもとで量子力学と統計力学の関係を研究し、仏語の博士論文を書いて博士になったのだった。時は1935年である。その後、今で言えば、ポスドクとしてW.ハイゼンベルクの下で原子核の研究を行う。その間にドイツ人女性とご結婚。一子をもうけた。
そして第二次世界大戦で、日本へ帰国し、理研で原子核の研究をした。つまり、日本の原爆開発であった。実際には可能性が低いということで別のことを研究したようだ。
さて、この渡邉慧先生の名前は私はだいぶ前から知っていた。名前だけ。というのは、ハワイ大学の物理学部の外壁だったか、渡邉先生の名前が書かれていたか、たしか物理のビルに先生の名前がついていたからである。
私はハワイにいた時始終ハワイ大のマノア校にいって物理の先生に知り合いを作っていっしょに昼食をとってバカ話をしたものである。
そんなこともあって、渡邉先生の名前は知ってはいたが何をされた先生かはまったく知らなかったのである。
ところが、ドイツの知人から渡邉先生の博士論文は日本にないかという質問が来て、これを探すうちに、知人に頼んで取ってもらったのである。どうやら東工大にあった。
その渡邉慧先生の博士論文については、全く知らなかったが、ここ最近も不可逆過程の理論で有名なプリゴジンの本を読んでいたから、プリゴジンの生涯のテーマが「時間の矢」の問題であり、どうして自然法則は時間に対称的なのに現象は時間に一方向へしか進まないのか?という問題に関心があった。
そんな折、徳島のそごう(ことし廃止)の紀伊国屋で渡邉慧先生の「時」
という本をみつけて以前からいつか買って読んでみたいと思っていたわけだ。そして何度かのチャンスでそれを買って持っていたのである。そしてプリゴジンの本を読み終わったから、最近この「時」という本を読み始めたのである。
この本は、哲学、物理学、宗教社会学と大きく3つに分かれていて、その物理学の中にちょうどその渡辺博士の1935年の博士論文を解説した論文があった。書かれたのは、戦前の1936年8月である。「可逆、不可逆の問題」という論文解説である。
シンクロニシティー
ちょうど私がこの解説を読んで、これはこれだけ読んでも詳しいことはわからないな、原論文を読まないとだめだな、でもこのド・ブロイ先生のところで出した博士論文は手に入るはずがないなあ、と思っていた先にドイツの友人からこの論文の在り処を聞かれたのである。
それでせっかく手にした論文だからコピーして仏語論文を眺めると、おおよそ対応するページがあり、式だけは見ることができた。
そうして日本語解説と合わせていくと、だいたい理解できたのである。
その結論とは?
我々が「量子統計力学」の定式化と呼んでいる、いまでは量子統計力学のどの本にも書かれている部分はこの渡邉慧先生の博士論文なのである。言い換えれば、渡邉先生が初めて量子力学から量子統計力学の定式化を厳密に行ったのである。
つまり、ミクロカノニカル分布のエントロピーSが
S=k logΓ(E)
この式を最初に導いたのが渡邉先生だった。久保亮五やその他の人は先生のずっと後輩で無名の学生だった。
さらに驚いたことは、
物理法則はすべて可逆だが(シュレーディンガー方程式も含めて)、どうして物理現象は一方向へしか流れないか?一方向に進むのか?
のその回答が博士論文の主要な結論として量子力学的に証明されていたのである。
どうやらプリゴジンはこれを知らなかった。あるいは知っていても意識的に無視したのであろう。
結論は実に簡単だった。
要するに、
「時間は我々が観測をするから一方向へ不可逆的に進む」
「観測するとエントロピーが増大する」
というものであった。
この世界のだれかが一度観測(観察でもよい)を行う瞬間、不可逆的にわずかにエントロピーが増大するのである。
しかし、この偉大なる結論はどの教科書にも出いていないのだ!
むろん我らが保江先生の本にもどこにもない。朝永先生の教科書にもディラックの教科書にもない。
この結論は、なんと渡邉先生が若干25歳の時の博士論文である。
どうやらこの1935年の博士論文は博士号取得後すぐにフランスで公表されるはずであったが、出版までかなりタイムラグがあったらしい。
さて、もう一つはどうして盟友の伏見康治先生が量子統計力学の大家になったか?
いうまでもなく、渡邉慧と同級生で非常に仲が良かったからである。
戦後、奥さんがドイツ人哲学者だった英仏独語等に堪能な渡邉慧先生は、ニールス・ボーアのコペンハーゲン、ウェイン大学、オッペンハイマーのプリンストン大、カリフォルニア大サンタバーバラ、そしてハワイ大と過ごし、日本へは晩年に戻っただけである。
だから、この間の業績は我が国では殆ど知られていなかったが、素粒子論のカイラリティー(キラリティーともいう)の概念やCPT対称性の理論はこの渡邉慧先生が初めて提出したものである。
1955年に渡邉先生がCPT対称性を論じた少し後に、C. N. Yangの対称性の破れが見つかったのである。
とまあ、こういう事情で南部陽一郎先生が「渡邉慧先生の業績は正しい評価を受けていない」と言い残し、この世を去ったのである。ちなみに、南部陽一郎博士は渡邉と伏見康治の世代よりずっと後で彼らの学生だった。
ところで、我が国ではノーベル物理賞を一番最初に湯川秀樹がとり、次に朝永振一郎がとった。共に京大の岡潔の薫陶を受けたから、素粒子論、あるいは理論物理学と言えば、京都大のイメージがあるが、それは間違いであった。
当時も今も一番優秀な秀才君たちは東京帝大に進学し、二番目が京都帝大に進学したのである。渡邉慧や伏見康治は日本の最高の秀才だった。同じ時代の東大にいた杉田元宜先生の論説によれば、当時は日本全国で物理の学生は90人程度だったという。東大で一学年せいぜい20〜30人もいなかったという。
そんな時代の秀才が渡邉慧先生だった。たぶん仏独英露中国語堪能。
それもそのばずだ。
以前メモしたように、陸軍士官学校でも一般教養科目の必須科目として、英仏独露中国語の5カ国語を教育していたわけだ。それも外人教授の指導で行われたのである。
たぶん帝大もそうだったはずである。
というわけで、アメリカの天才ノーバート・ウィーナーの量子力学への貢献、我が国の天才渡邉慧先生の量子統計力学及び素粒子論への貢献、こういうものが量子力学の教科書や量子統計力学の教科書に欠落しているのである。
ところで、渡邉慧先生の一番のお弟子さんは、豊田利幸先生だったという。「渡邉慧先生のお仕事と生涯」という追悼記事があった。私はこれを国会図書館から遠隔コピー依頼して取り寄せた。父親の名前が國武の兄の千秋になっていた。まあ、どっちがどっちか本当のところは私にはわからないが。
実は、この豊田先生は保江邦夫先生の名古屋大学時代の恩師の一人だった。一緒に湯川の素領域理論の論文を書いている。
にもかかわらず、素粒子の専門家を自認する保江邦夫先生でも渡邉慧は知らないのである。保江邦夫先生の恩師であった高林武彦先生は東大時代に渡邉慧先生と同世代の人であり、共にフランスのド・ブロイに師事したのである。
いつになれば、量子力学はまともな記述に戻るのだろうか?
弥栄!