みなさん、こんにちは。
さて、今日は雨も降っているし、外出できないから、これはというものをまたメモしておこう。まずはこれである。
今回は一種のジョークのようなものであるから、スルーでよろしく。
先日、この出版社から以下の本が送られてきた。どうもありがとうございました。
どうやら昨日発売のようだった。
この本はますます「保江ワールド」の集大成として興味深い本だから、ぜひ信者以外の人も読んでみたら良いだろう。
ここでは、この本の内容は特にメモしない。
献本していただき大変興味深かったので感謝します。どうもありがとうございました。
さて、私は保江先生の合気道や愛魂道の弟子でもないし、先生の理論物理学者の弟子でもないし、あくまで同じ物理学者としての親友の一人というか、友人の一人に過ぎない。あくまで保江先生の功績を本や論文から第三者の目で学び、評価し、批評する立場の者に過ぎない。
物理学者にもやはり世代というものがあって、我々の高度成長期に海外に留学した人とそうではない人や、最近の若い世代やずっと昔の終戦直後の人たちとはかなり違うのである。
その意味で、私と保江先生は同世代人という意味で話が合う。共通の時代背景の価値観が共有できるわけだ。
戦後すぐに物理学者になった人は、なれた人であり、あの戦後のどさくさの中でも大学で勉強できたという、ある意味でも実質的にもリッチな家庭の恵まれた人たちだった。あるいは、戦争に行かずにすみ、生き残れた幸運な戦前の教育を受けたものであった。
大半の青年学者は戦地で死んだ。
ちなみに、第一次世界大戦のヨーロッパがそうだった。あのマイケルソン=モーレーのモーレーは戦地で戦死したのだ。生き残ればすぐにノーベル賞だったと言われている。
イギリスのホワイトヘッドとラッセルの弟子のヴィトゲンシュタインもそうだった。戦争に行ったのである。幸い生きて帰ってきた。だから、哲学者になれたのである。
フランスのカラテオドリもまた戦地へ行った。サハラ戦線である。そこでエジプトのクフ王のピラミッドを見ていた。幸い生き延び、戦後好きな数学者に転身した。そして有名な数学者になり、カラテオドリの原理、カラテオドリの変分原理、。。。などの大数学者になった。とても重要だが、非常にユニークな数学者になった。
生きて帰るか死んで帰るかはまさに運命の分かれ道だった。
このモーレーの悲劇の死の結果、ヨーロッパには今度戦争があったら、「学者は戦争へは送らない」「学者を兵士にしてはならない」その代わりに「学者に軍事研究させろ」という考え方が根付いた。
だから、次の第二次世界大戦では、イギリスのチューリングもアメリカのフォン・ノイマンやファインマンも戦地に兵士として行かずにすんだのである。
が、悲しいかな、我が国の政治家および軍人にはこの思想がまだ根付かなかった。おそらくいまもって根付いていないだろう。
ユダヤ人が第一に学者を目指すその一番の理由がこれである。「学者は兵士にならなくてすむ。」
我が国でも生き延びた学生や学者にはその次に来る経済復興と高度成長が待っていた。
たしかに学者は貧乏だったが、満足のいくまで社会の片隅で本当に自分したいものを研究できた。
また、戦争で上の世代が死んだことで、大学のポストに空きが出て、また戦後の新制大学増設と重なり、学生はみな学者になろうと思えばなれたのである。
ただしそれには実家が金持ちでないとだめだった。生活費がないとだめだった。
そして高度成長に入った。
いま現存の有意なる頭、ボケていない脳味噌を持つ学者はみなこの時代を経過してきている。
我々もそうだ。
そして、平成になると、同和出身の官僚首相の宮沢喜一がバブル崩壊させ、それを在日の森から始まり、かの小泉じゅんちゃんと平蔵ちゃんのおかげで、ドツボにはまった。「日本をぶっ潰す」政策へ転換し、日本の代わりに韓国がとって変えられたという時代に入ったのだった。
こうなると、学者でも若い世代は、富裕層と貧困層という社会風土の中で生きているため、最初から自分が社会のどの階層レベルまでの人間になれそうか、「小学生でもわかる、猿でもわかる」という時代に入ったのである。
学者も同じだった。
自分の父親か母親が大学教授でない限り、いくら自分が天才でも大学世界に後ろ盾がいなければ、職すら取れない。
この意味で、オボちゃんこと、小保方さんは知恵があったと言えるだろう。ハーバード大の教授の力、理研の笹井教授の力を後ろ盾にした。しかし、笹井先生が変死されたとたん、後ろ盾がいなくなり、居場所がなくなった。
しかしまだオボちゃんはましだった。
実は、私のようにアメリカでPhDをとった人間は、我が国では公式には「博士号取得者」とは認められないのである。認められてすごい給料を貰えるのが外人だけ。外国籍ならPhD=博士号取得者として認められるのである。しかし日本人、日本国籍の場合は、PhDの前の修士号なら修士号取得者、学部の学士なら学士としか認められないのである。だから、給料も地位も少し下がる。
私が富士通に入ったときは、修士号として給料をもらうしかなかった。が、欧米人は最高級の給料を得ていた。
これは私だけではなく、私の知る限り、東大の有名教授になった和達三樹先生(ニューヨーク州立大卒)もそうだったし、同僚のサウレスがノーベル賞を得た甲元眞人先生(シカゴ大卒)もそうだったと思う。
和達先生がフルの正教授になったのはかなり遅かったというし、甲元先生は結局物性研では准教授止まりだった。私が富士通時代に週一回甲元研のゼミに参加していたが、そのときに何番目かの大学院生だった押川君の方が彼を指導した甲元先生よりも先に物性研の教授になったのだった。
おそらく、このことから推察できるのは、甲元先生も東大修士卒か、あるいは、学士卒扱いされたからに違いないのである。
要するに、たんなる公的な事務手続きのために出世が遅れたのである。
甲元先生は2017年に学士院賞、朝日記念賞とかを受賞されたようだが、これはその前年の2016年に同じ研究をいっしょにしたサウレスがノーベル賞を取ってしまったのにそれ以前に甲元先生を無視してきた罪滅ぼしだったにちがいない。
ところで、保江先生の場合は、カソリックの総本山バチカンのつてでしっかりとノートルダム清心女子大の正教授に最初からおなりである。
要するに、何がここで言わんとするかというと、我が国の人事は(むろんアメリカの人事もどこも似たようなものだが)、結局はコネなのである。
それももっともで、人間万事塞翁が馬、つまり、コネである。
人はなかなか信用できない。見ず知らずの人を採用したらリスクがある。だから、できれば安心できる人を取りたい。
だったら、知り合い、知り合いの知り合い。そういう人を採用したい。
これが公務員、国家公務員、さらには学者の世界にも存在するわけだ。
欧州もそうで、貴族は学者になりたければ、博士号もPhDもなくてもなれる。
ちょっとましなのが、一応「捨てる神あれば拾う神あり」のアメリカである。
こういうふうに、我が国には米国にあるような「アカデミクスセクター」が存在しないのである。いまだ学者や医者や看護師は国家公務員の延長線上にある。
これを問題視したのが、拙著の「
三セクター分立の概念」という本だった。私がまだ33歳くらいの時に書いたものである。
あれからちょうど30年。
しかし我が国はますます逆に大政翼賛方式の一党独裁の共産国家に近づいてきた。
こうして日本の、我が国の、大学世界、アカデミズム世界を眺めれば、私がその本でそうなってほしくない、そうなったらいけない、そういう方向ばかりへ見事に選択していったのである。
まるで、空き缶菅直人とこだまの枝野幸男がことごとくやるなするなという方向の選択を積み重ねて福島第一原発の1号機を爆破、2号機3号機4号機と爆破大破させたことに似ているのである。
まあ、意識的に、恣意的に日本の官僚制度の支配層がそういうコンセンサスを作って舵取りしてきたわけだ。そしていまもそれが続く。
そうなった結果、そういう社会では、「上級国民」と「下級国民」、つまり、戦前の「貴族」と「平民」、韓国流で言えば、「両班」と「奴隷」ということになるが、そういうふうに分かれたわけだ。
さて、やっと長い前置きとなったが、最初の保江先生の本の話になるが、こういう我が国の戦後の大まかの歴史を知らないと、その本を読んでもその意味が理解できないし、その面白さもわからないのである。
上のその本のどこかに保江先生の次女の話がある。
有名なエスタニスラウ神父の神通力の話である。
保江先生の次女は、私はどこかの研究所のサイトの写真で一度見たことがあったが、保江先生似の美人である。
その次女がまだ中学生のころ、髪を赤く染め、ヤンキーになりかけた時期があったという。というより、赤髪の女子中学生でケンカばかりというのだから、生粋の女番長だったのだろう。我々の時代で言えば、
スケバン
スケバンになった我が子を哀れに思い、自分ではどうしようもないから、保江先生がエスタニスラウ神父のところへ連れて行ってどうしたら良いかを聞きに行った。
この辺の詳細は本文を読んでもらおう。
実際は、次女も保江先生もいっしょにこたつに座っていっしょに歓談していたわけだ。
保江先生とエスタニスラウ神父はフランス語で話し合ったという。が、保江先生はその記憶が飛んでいる。
人間、無心で集中したときは記憶に残らない。
サッカーでも相撲でもなんでもそうだ。
私も試合後、自分がどういう試合をしていたか、試合直後の1時間はまったく記憶が飛んでいた。それが徐々に時間が経つと思い出す。こういう経験を何度も何度もしてきたものである。
相撲の力士も試合直後のインタビューでは何も答えられないのが普通である。
保江先生にもこれが起こったのだろう。
しかし横で見ていた次女さんは違った。第三者の目で見聞きしていたのである。たとえフランス語がわからなくても、その空気や雰囲気から何かを得る。
そうして、帰り際になると、その次女が
「なんだかわからないけど、私もうバカやめようかな」
と言い出し、もともと天才保江先生の血筋だからやる気になれば早く、どんどん勉強ができるようになり、岡山随一の進学校のたしか朝日高校に合格したのである。
この朝日高校が保江先生の母校であり、次女の母校であるという。
そして、今度はその朝日高校からこれまた保江先生の歴史の再現のごとく東北大学に合格したのである。
つまり、保江先生は普通に試験したらまず合格しないだろう成績だったが、偶然大学紛争に遭遇して、その争乱の中のいい加減な試験になった結果、ほとんどいまのAO入試のようになり合格できた。
大学の研究室配属のときにも学園紛争で、大半の学生が運動に参加した結果、5人定員のうち、保江先生を含めた5人しか受けずそのまま合格になってしまったという。
この話のように、保江先生の次女さんもまた、AO入試で見事合格したのであるという。
そのとき、面接で、たくさんの面接する学者の中で
「僕はあなたの先生の本を持っていますよ」
と言った教授がいたという。
ただそれだけで、この次女は「自分は合格した」と思ったというのだった。
何を言いたいか?
というと、我々の時代より6歳上の世代である、保江先生の時代は、偶然大学紛争や学園紛争に巻き込まれた結果、偶然厳格なペーパーテストを受けずにすんだために、本来なら受かるはずのない東北大学に合格したということが可能になったのだ。
が、次女の平成の時代では、すでに日本社会が持てるものと持たざるものとの二極分化の社会にみごとに分かれていて、その結果、持てる方のご子息ご令嬢である保江先生の次女さまは、何も問題なく、東北大学へ合格し、その後も何の問題なく、大学院へ進み、博士号を取得し、いまや日本のNASAことNASDA(宇宙開発事業団)の職員になっているというわけである。
そればかりか、保江先生のように、大学教授(正教授)は持てるものになり、あの池袋の暴走爺さんのように、「上級国民」のような感じの立場に変わっているということなのだ。
さもなくば、日本全国をベンツやミニクーパーで乗り回して、好き勝手に旅し、毎日イタリア料理を夕食にするというようなことは、我々一般庶民にはできない相談だということなのである。
だいたいコリトリ(業捨)1回40分で10万円。
どんなヒーラーでも1時間で4〜5万円はかかる。
最近流行りのペニス増強、ペニス若返りの専属チンマッサージなんていうのもあるらしいが、こんなのはかなり高そうだ。
霊的、スピリチュアルといえばその響きは聞こえが良いが、そこは現実社会、結構お金がうごめく。
お金がないとスピリチュアルにも霊的にもなれないのである。
これが現実だ。
だから俺の場合は、できる限り現実主義の霊性やスピリチュアルからは遠くにいざるを得ないのである。
つまり、言い換えれば、先生のご著書のタイトルと正反対に
僕は神様に愛されることを極力避ける
のである。
つまり、俺の場合は、
「僕が神様に愛されることを厭うようになったワケ」
という本を書けそうだ。
ここにも、俺と保江先生との双対性が現れた。
いやはや、実に不思議である。
別に私は保江先生の主張やおやりになられていることを否定するつもりはない。むしろ大歓迎で私は彼の一大ファンである。
しかし、彼の方法ややることは私のような貧乏学者には経済的にも物理的にも精神的にも血筋的にも不可能だということを言っているにすぎない。
だから、いっしゅの霊性スター学者としての大活躍を著作を通じて見させてもらおうという立場にすぎない。
先生のハラハラ・ドキドキの霊的大冒険をあたかもテレビでインディージョーンズをみるように見るというだけのことである。
ところで、私の名前はうそこメーカーでやるとこういう感じだった。
これでは、俺が神様への愛ばかり考えているかのように錯覚しかねない。
しかし、実際には美女や女性とのリアルな愛ばかり考えている方に近いのである。
いったい「愛」という言葉はどっちが本当なのか?
俺の謎は尽きない。
弥栄!
