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【年末所感】俺の今年の漢字は「怪」。Urbild「典型」と「平均」との違いは?良い年末年始を!







みなさん、こんにちは。

さて、いよいよ年末。我が家も今日から冬休みに入った。

そこで、今年最後のメモとして、一応私の1年を総括しておこう。


今年は我が家は漢字一文字で表せば、災難の「災」だっただろうか?あるいは、怪我の「怪」だろう。




夏に20cmのムカデに夫婦ともども噛まれ、私は左手首、奥さんは首。幸い奥さんは軽症。私は重症。左腕が腫れた。

手首にまだそのムカデの歯型まで残っている。

その後も今度は5cmの小粒なムカデに左腕を噛まれた。これも痕が残る。

夏の終りの夕方のジョギングの帰りに薄暗くなった頃、道路から歩道にショートカットで戻り際、そこの歩道の段差に躓き、歩道を横断する形で手と膝を付く形で大前転で隣の側溝超えに田んぼに突っ込んだ。何が起こったか見えなかったが、目の前には星空が見えた。つまり、気がついたら田んぼに大の字になっていたわけだ。

というわけで、収穫前の稲にくっきり人の字の凹みが誕生。幸い稲に救われた格好になった。

が、起きて気がつくと、ペットボトルを持っていた右親指の付け根は全体重がかかって鈍角に開き、そこの健を負傷。両膝は打撲と裂傷で血だらけ。大きく腫れ上がった。特に右膝は二度と歩けないかもしれないというほどの痛みだった。

翌日、整形外科医で診てもらうと、レントゲンでみた限りでは骨は全く異常なし。打撲だけだったが、両膝が腫れ上がり歩くのも大変だった。

比較的順調に膝は治ったが、いまも裂傷の痕が残る。

そしてごく最近、玄関で急いでものを取りに出る時に、その段差を下りる際に、左の足底裏で何かがプチっといく違和感があった。ものをとりに行って返ってから足裏を見ると、なんと足底の真ん中に大内出血。中心が非常に痛み、ジョギングどころではなくなった。

翌日そこがしこりになり、固く丸い血腫か、血の塊が内部にできて、歩くたびに痛む。

痛みが酷いので、ボルタレン座薬でなんとかしのいだが、いまはほぼ落ち着き、しこりが残るものの、それほどの痛みはなくなった。


こうしてみると、災い続き、アクシデント続きの1年だった。

あまり例年にないことだった。




さて、最後に話題を変えて、ここごく最近また、杉田元宜博士の本や解説や論文に戻っているのだが、その中にドイツ語で

urbild

という言葉がよく登場する。

これは日本語では、

典型

という意味である。

そこで、我々物理学者がある現象を考える場合、実験にせよ、理論にせよ、その現象の典型例を考えて問題にするのである。つまり、学者の話はurbildであって、すべてを考慮したわけではない。こんな話である。

ところが、一般人が語る場合、これはどちらかと言えば、「平均」を語る。


そこで、私は典型と平均とは同じことなのか?違うことなのか?これが問題だろうと考えるわけだ。

平均とはすべてをならして考えるものである。

数学で言えば、積分である。

ある量を個々の場所ごとの変化や時間的変化を考えずに、領域の境界までの積分したものをその領域の全体で割ったもの。つまり、その領域あたりの量にしたものだ。

平均身長で言えば、ある人数の人の全員の身長を足して、その人数分で割り、一人あたりにしたものである。

平均顔で言えば、有る人数の全員の顔の特徴を足して、その人数分で割り、一人あたりにぼやかしたものである。


これに対して典型というのが、その中で一番頻度が高そうなものであると考えられる。よく起こりそうなこと。だから、いろんな出来事の平均とは明らかに異なる。

頻度だから、最大頻度のもの、すなわち言い換えれば、最大確率のものが典型と言えるだろうか。

物理学者は現象の中で最大確率で起こるものだけ論じるのだ。

どうやら杉田元宜は翻訳したドイツのハイトラー(ハイトラー・ロンドンのハイトラー)の本「思索と履歴」から、この内容を抜き出したようだ。


私の印象としては、数学者が物理学者を毛嫌いするのはこれである。

彼らは、すべてを論じたいのである。特例だけではなく、平均化したものではなく、あらゆる場合を網羅して一つの定理を完璧に証明したい。


物理学の教科書にある「例題」。これが一つの典型例である。


だから、例題を勉強すれば教科書のある内容は理解できるが、それを使って現実の自分の研究にそのまま利用することはできない。自分の問題は典型ではないから研究対象になるのであって、典型ならもう分かっていることに過ぎない。


ここでどうするか?

というと、たいてい2つに分かれる。

(あ)一つは、自分の研究する稀な特例の中で、それをなんとかして典型に合わせる努力をする。自分の問題の中に典型を見つけてそれを典型とアナロジーをつけて論じる。つまり、一般解である。

(い)もう一つは、自分の特例から、特殊解を発見する。

後者は前者の10倍難しい。しかし一般受けするのは前者である。前者の学者の方が人気ものになる。逆に後者の学者は特例をたまたま解けただけの異端者とみなされる。そういうことが多い。

どちらかといえば、私や保江邦夫は後者である。一方、東大で飯を食う人たちは前者が極めて多い。



こういう事情で、教科書に載る話というのはUrbildなのである。

しかし現場や現実社会には、Urbildはその一部にすぎない。大半が特例である。

だから、ハイトラーや杉田元宜が考えた時代のように、1つのUrbildだけを考察すれば良かったという時代は過ぎたのかもしれない。

ひょっとしたら、特例もスケールフリー

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で分布しているかもしれないわけだ。こうなると、Urbildが意味を成さないかもしれないわけだ。

尺度を変えるたびに、あたらしいUrbildが存在し、系全体で1つのUrbildがあるということがないからである。

同様にスケールフリーでは平均は意味をなさない。理論上は発散するからである。


しかし西洋型の頭脳で発達した科学や物理の世界では、たった一つの鍵ですべてが解ける。つまり、オールマイティーの鍵の存在を想定する思考傾向から逃れられない。

これが分かれば、この問題が解ける。こういう考え方がまだ蔓延る。

グレタさんの地球環境問題の思考形態もこれである。プッラスティックゴミを処理すれば環境が良くなると考えてしまう。彼女らにとり、ゴミが一つの解決の鍵なのである。

しかし、我が国の多段金庫のように、1つの鍵でドアを開けると中に別の鍵の金庫が入っていて、ロシアのマトリョーシカのようになっている。

日本の多重金庫なら有限個、せいぜい3個ほどの鍵で開けることができるが、もしそういうふうになっていない場合は無力である。

つまり、あるものは別のものの鍵になり、別のあるものは別のものの鍵になり、また別のものはまた別のものの鍵になっている。。。自然界はむしろこういう感じの構造をしている。

つまり、自然界のすべてのものが鍵により開けられるが、それ自身が別のものの鍵になっているのである。

言い換えれば、すべてのパーツが鍵でもあり鍵穴でもあるわけだ。

そして、鍵を開けたり閉じたり、鍵穴を開けられたり閉じられたりしながら、お互いにお互いを必要としたり依存したりする形で構成されている。

すくなくとも、生命の作り方というものはそういうものである。


だから、ユダヤ還元論的な、これ一つですべてが解けるという思考形態は時代遅れだと私はつくづく思うのである。

イギリスのユダヤ人作家が書いた、アーサー王伝説のエクスカリバー。

この剣を抜けるものが世界を支配できる。

こういう考え方は実に西洋的だが、実に還元論的だ。

同様に神様は一人しかいない。全能の神という考え方もエクスカリバー伝説と同根である。


むしろ我が国の神道の伝統である、八百万の神々の方がリアリティーに近い。

もし世界がスケールフリーなら、それぞれの世界にそのスモールワールドを司る神がいると考えるほうが理にかなっているのである。

そうなれば、神の数は無限になる。

そして、我々自身もある意味でその世界の神である。

一人の神は別の神にとって鍵であり、鍵穴である。

まさに不一不二。


昨夜、セキルバーグこと関暁夫の「都市伝説」の年末スペシャルをやっていたが、その中で出てきたユダヤ人の話がまさに昔の考え方の典型だった。

我々の世界はアバターかもしれない。

まさに一つの概念さえあればそれですべてが分かるというユダヤ人的思考形態の典型だった。

俺に言わせれば、悪手。時代遅れそのものだった。



そろそろ世界がこういう非還元論的な思考に馴染む時代が来ることを願いたい。


そのためには、やはりその典型、Urbildである生命の理論を構築しないとだめだなと思う今日このごろである。


では、みなさん、今年も色々お世話になりました。ありがとうございました。来年もよろしく。


良い年末年始をお祈りいたします!






弥栄!








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by kikidoblog3 | 2019-12-29 11:12 | 数・理・科学エッセイ

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