みなさん、こんにちは。
まあ、昨夜は試合を見てすぐに寝るつもりだったのだが、その試合の問題点をメモしているうちに夜中まで掛かり結局12時前に投稿することになった。
どうしてこういう結果になるか?
この問題について俺個人の見方をメモしておこう。
おそらく普通人には受け入れ難いだろうから常識人だと自分で思う人は退散。スルーでお願い。
こういう問題には2つある。
(あ)選手の問題(い)監督の問題
ここでは、先に選手の問題≒選手育成時の問題だけメモしておこう。最後に監督の問題をメモするかもしれないが、長くなれば端折る。
(あ)選手の問題≒選手育成の問題
実は、こういうふうな試合になる理由、つまり、昨夜のような不甲斐ない試合になる理由。
おそらく昨今のスポーツ事情知らないスポーツ評論家やスポーツ指導学者の世界では信じられない話に聞こえるはずだが、
要するに、
体罰をしないから弱くなったのだ。
男にはとにかく体罰を行なわなければ、痛い試合、厳しい試合に勝てないんだな。
仲間のために戦争で死ぬ。
仲間のために命を張る。
仲間のために体を張る。
こういう心理状態を生むため育成するためには、とにかく体罰を行なわなければならない。
ビンタ、ケツバット、グーパンチ、。。。
やられたら反発する。しかし体罰を加える方も痛い。
しかしそれでも、選手に痛みを感じさせなければいけない。
さすがに年がら年中これではだめだし、怪我させるようなものは逆効果だが、時にはそういうことも必要だということだ。
比較的最近でいちばん有名な事例は、日本とワールドリーグで優勝した松井秀喜であった。
小学生の頃生意気になり不甲斐ない態度でいた場合に、監督がビンタ一発して今の松井の核ができた。それ以後は神話だ。
昨今の「欧米流の話せば分かる式」の育成法が導入されてきた結果、
男子選手が女の子のようになった
のだ。
実際、昨夜のチームのベースとして期待された国内の天才、田中碧はまさに女子選手だった。
身体もぶよぶよぷよぷよして柔らかそうで、顔にも肉がついていた。
だれだ?
こんなホモ野郎を日本代表に入れたバカは!
森保か。
とまあ、昔の日本ならこんな発言が飛び交った。
この世界は男の世界だ。男が作り上げた世界だ。
その責任や自負がある。
女は黙ってろ!
とまあ、こういう世界なのである。
女はその後ろにもっと大きな力のある男がいるから表に出られるだけだ。表舞台の政治でも裏世界の飲み屋の世界でも同じことだ。
男のパトロンがいるから、女は大きな顔ができる。
俺はリアルな世界のこと、根拠のあることしかメモしない。
トンデモは偽学者のトンデモにおまかせしろ。
俺は怒ると何を言い出すか全くわからない。まさに「神降ろし」「あるがまま」に話す。
それほど昨夜の試合もひどい試合だった。
同じ観点の主張はプロサッカーの日本代表だった秋田も言っている。
<東アジアE-1選手権:日本0-1韓国>◇18日◇韓国
球際の強度が、話にならないくらい弱かった。この年代は、韓国のように激しくて厳しく来られる相手との経験が少ない。特に前半は、ほとんどの選手がまともに戦えず、ビックリした状態で試合に臨んだ。ボールを持つのが怖いと思ってプレーした印象がある。相手CKの時は、対人マークだけに集中してボールの動きは目に入らない。だからボールにアタックできず、何度も競り負けた。
日韓戦は特別と言われる。歴代の日本代表選手は、日韓戦でもまれて成長を遂げてきた。結果はともかく、殴り合ってなんぼの戦い。激しい攻防の中で、どれだけ自分のプレーを出すか、どれだけ強い気持ちで挑むかが醍醐味(だいごみ)なのに、びびって臨むのでは話にならない。
最後に。私事ですが、今回をもって日刊スポーツ評論家を卒業します。来季からはJ3盛岡の監督としてJ2昇格を目標に戦います。辛口の評論が多く、いろんな方に不愉快な思いをさせたと思いますが、日本サッカーが良くなることを誰よりも強く思っています。これからは評価される立場となりますが、しっかり結果を出したいと思っています。長い間、お世話になりました。(日刊スポーツ評論家)
現実は俺や秋田の言う通りだ。
ところで、アメリカのスポーツの場合もそうだ。
我が国では、アメリカのスポーツ学者や医者のような自説を世界に流行させ本で儲けたり、名前を有名にして地位を上げたいというような偽ユダヤ系の学者の言説がすぐにGHQ周りの電通経路で流布し、出発点のアメリカ以上にアメリカの言説が流行する。
だから、「話せば分かる式」の指導法が日本に流行して、「体罰はいけない」「体罰は暴力だ」が在日韓国系のマスメディアを通じて広がったわけだ。
これに反すれば、超一流の監督実績のある監督まで吊るし上げられて監督業を取り上げられる世界になってしまった。
そういう米偽ユダヤ人が流行させた話は別として、現実のアメリカのスポーツ界の話として、やはり悪いことをした選手やだめな選手には鉄拳制裁があるわけだ。多少の怪我(そのうち治るようなもの)はつきものだ。
だから、監督と選手の間で口論や喧嘩になることもしばしばである。だから、監督はやはり喧嘩も強くなければならない。
アメリカは軍隊、それも世界最強の軍隊を持っている。
我が国はそのアメリカと熾烈な戦いをした軍隊を持っていた。
世界最強の陸軍士官学校を持っていた。
そういう国が、歴史上まったく戦争に勝ったことのない朝鮮人の言うがままの教育指導をしたら、それは失敗するわけだ。
朝鮮は「韓の法則」として知られるように、歴史上一度も戦争で勝利したことがない国の代表だ。有名である。
「韓国と同盟を結ぶと必ず敗戦する」
これが「韓の法則」である。
とにかく、最前線で戦うのを怖がり逃げる。逃亡する。そのためには、後ろから仲間を裏切る、撃つ。内紛である。これで滅ぶ。
今の南朝鮮がまさにこれだ。
そんな性質、脳を持つ人間が戦後我が国に怒涛のように侵略してきた。
そしていつしか日本人から土地を取り上げて日本社会の全面に押し上がり、平成を打ち上げた。
だから、平成以来、「空白の10年、20年、30年」が生まれたのだ。
この朝鮮人の伝統で非常に特徴がある教育を行う。それは、「過保護」である。
子供をしつけない。厳しく叱らない。子供に手を出さない。
これが特徴である。
だから、天然の事大した国民性が生まれる。跳ねっ返り、ちんぴら、ヤクザが生まれる。
とにかく、躾がなっていないまま大人になる。それが朝鮮人の特徴だ。
それに対して我が国の伝統は全く違う。
鉄は熱いうちに打て!
である。
幼少期、子供のうちに、厳しくしつける。
だから、侍が生まれる。
そのためには、悪さの度合いに従って、体罰も強くなる。
勉強しないなら、廊下でバケツ持って立ってなさい!
教室にいてもどっちみち勉強しないわけだ、教室内にいれば、他の生徒の迷惑になる。
それなら、バケツ持って先生の目に見える範囲で立ち続けさせた方、体の姿勢の矯正になる。その子のためになる。
俺も小学生時代何度かバケツ持って立たされたものだ。
これが体罰???
これは教育でしょ。
良い悪いの価値判断は教師の仕事。
生徒の親でもなければ、生徒であろうはずがない。
だから教師の免許や教師の資格があるわけだ。それができなきゃ先生を辞めるべきだし、逆にこれに親が不満なら自分で教育しろ。
人に世話になっておきながら、指導法にイチャモンを付ける。
夫のお前、そこで腕立て30回だ!
妻のお前は、100mダッシュだ!
これが教育における体罰である。
体罰は指導法の一種である。
これに対して、「しつけ」と称して理不尽に執拗に暴力を振るう。これは立派な「家庭内暴力」である。
「家庭内暴力」と「体罰」は異なる。
つまり、「暴力」と「罰」は異なるわけだ。
「暴力」は理由がなく行なわれるものだが、
「罰」は理由があってその代償として行なわれるものだ。
ところが、朝鮮人にはこの区別がつかない。そういう脳みそをしているわけだ。
だから、今の国内に進出している朝鮮系の言説に従う必要などサラサラないのだ。
大阪維新の松井とかな。鮮人に乗っ取られた神奈川国や川崎国とかな。
そんなところは鮮人にくれてやれ。
どっちみち北朝鮮と戦争になれば、真っ先に大阪と神奈川は木っ端微塵に潰される。
だから、神奈川や大阪の朝鮮人は、北朝鮮人の手で殺されるはずだ。
自業自得だ。
教室で授業中に勉強しないから廊下に立たされるのであって、これは罰だ。
しかし、食事中にいきなり廊下に立たされたり、いきなり廊下でパンチ食らわせられたら、これは暴力だ。
人を理不尽に殺したから、その代償=罰として死刑になるのであって、罪なき人が犯罪者に間違われて逮捕され、そこで尋問されたり死刑になるのであれば、これは暴力である。冤罪だ。
暴力と罰、
とにかくこの区別をはっきりさせろ!
これを日本人に問いたい。
さて、最初のサッカーの話に戻ると、この体罰をされてこなかった選手たち。これが昨今のサッカー選手の最大の特徴である。
上の秋田の時代は体罰が普通だった。
シュートミスすれば、試合後にシュート100本練習。
途中で走り負ければ、ダッシュ50本。20km走。
試合中に監督の指示に従わなければ、監督からのお叱り一発。ビンタ一発。げんこつ一発。
ところで、根津さんこと、小名木善行さんによれば、
学
という漢字の昔の漢字、旧字体
學
この違いが大きいという。
つまり、戦後GHQとその手下になった文部省のせいで「學」が「学」に変わった結果、日本人がだめになったのだという話だ。
なぜか?
學の上の部分で「X」が2つあるが、その「X」に見えるものは、大人の手で、その両側の片の部分が「大人」を表し、台の上にいる「大人」たちが手で下の「子」を引っ張り上げる。これが「學」という文字の意味だというのである。
学校の「学」に至っては、ものすごく重要な文化が失われました。
もともと「学」は、「學」と書きました。
「へん」のところが複雑な書体になっていて、「X」が上下に二段並んでいますが、これは人の手で、両側にあるのが大人たちです。
つまり「學」という字は、複数の大人が、みんなでひとりの子を立派な人にするために「引っ張り上げる」という意味を持つ漢字であったわけです。
ところがこれが「学」になると、むしろ「子」が主体で、自力で学ぶことが「学」というように錯覚します。
要するに、教育者の側が子のレベルを引っ張り上げるというのが、もともとの「學」、子が自力で学ぶというのが、新字体の「学」です。学ぶ主体が逆なのです。
そもそも「教える」という字も違います。
昔は「敎」と書きました。
この字は、上にある「X」の部分が、大人を意味します。その下に子がいます。
そして、つくりの部分は、右手で殴ることを意味する象形です。
要するに、子の成長と未来に責任を持っている大人が、立派な大人になるように子を殴りつけでも成長させるというのが「敎」という昔の字なのです。
ところが新字体の「教」になりますと、老獪な老人が子を殴りつけるという字体になっています。
要するに子の未来に責任があるわけではない狡猾で老獪な老人が、若者をカタに嵌(は)めて言う通りにさせて自己の利益を図るというのが「教」という漢字です。
責任の所在の有無によって、意味が逆転してしまうのです。
Korean社会は、いまもアポジと呼ばれる60年安保を仕掛けた反日主義の老人が在日社会を牛耳り仕切り、若者たちを操って自己の利益を追求しているといわれていますが、まさに新字体の「教」を地で行く社会になっているわけです。
知識としての「学」と、教育としての「學」。まったく意味が異なるのだ、
この意味で、戦後の日本人は「学」がついたが、「學」は失われたのである。
「學」を行うには、「体罰」も時には必要なのだ。
不甲斐ない試合をして日本代表の名誉を損なったチームには当然「体罰」が必要だ。
走れなかったのであれば、試合後「20km」させる。そして、毎朝10kmを命じる。
ボールに追いつけなかったのなら、「50mダッシュ100本」。そして、毎日ダッシュ50本命じる。
これはすべてその選手の足りない部分を補うために行うことだ。いくらきつくても、それがその選手のためになることだ。
言い換えれば、その選手を「愛しているからこそ」体罰を行うのだ。
もしその選手を愛していなければ、単に負けたことに怒り、その選手をボコボコにして選手生命を奪うだろう。これが「暴力」である。
「体罰」というものと「暴力」はこれほど異なるものだ。
「体罰」には愛がある。しかし「暴力」には愛がない。憎しみしかない。
選手も自分が不甲斐ない場合に自分のやり場のない気持ちをどう晴らせばよいかわからない。
むしろ、監督に叱ってもらいたいのだ。怒ってほしいのだ。その方が気が晴れる。
監督やサブメンバーに「よくやった」と変な言葉かけされても何の足しにもならない。
これが男ぞ。
こういうときこそ、むしろ敗戦の「罰」として、20km走させられたほうが良いのである。気持ちが晴れる。
これが禊(みそぎ)だ。
「体罰」には「禊」効果がある。
負けたことを償ったわけだ。
そして二度と同じことを繰り返したくないと考える。
昨今のJリーグ、プロ化してからのJリーグ。これの何が問題かというと、監督やコーチが優しくなったことだ。
昔なら体罰でだめになった、嫌になって止めたという選手もそれはいただろう。
それはそれで自然なことだ。サッカーはぶつかり合うスポーツだ。
しかし、Jリーグでは逆の問題も出ているはずである。体罰で辞めるなら「体罰」という「目に見える」ものがあるが、こっちは「目に見えない」。
それは、怒られなかったり、罰を受けなかったり、体罰をされなかったりで、不甲斐ない選手に育って結果的に大きく成長できないで選手を終えるという問題だ。
小学校野球部監督のビンタ一発で改心し、「世界の松井」になった松井秀喜。
Jユースの監督やコーチにビンタもされず「天才、天才」と褒め殺しで成長し、結局世界の歴史に名を残せなかった宇佐美などなど。
Jユース出身の選手にはこっちの方が多いのだ。
つまり、これは一種の「生殺し」である。
生涯の生殺しになるなら、まだ「半殺し」の体罰により改心しその後「世界の〜〜〜」となったほうがマシであろう。
万引した野球部の後輩を鉄拳制裁で「半殺し」にした野球部の先輩たち。これは当然といえば当然だ。
万引したことが表に出れば、どっちみちその野球部は出場停止だ。
後輩の犯罪で自分たちの未来が閉ざされる。
逆に、先輩たちの淫行や飲酒でそれが発覚して、後輩たちの未来が閉ざされる。だから、先輩たちの問題を親に伝えた。その結果、怒った先輩たちが後輩たちを「鉄拳制裁」した。これこそ「暴力」だ。
このように、物事はその因果関係をつぶさに知らべれば、かならずそれが「罰」か「暴力」か判明する。
こういうのを「微分評価」という。
これに対して、何でも味噌糞にする。状況を見ないで、見た目や結果だけ見て大まかな対処をする。これを「積分評価」という。
会社の社員が犯罪起こせば、まずそのやった本人を社長が連れてきて、社長の前でいっしょに謝罪する。やってもいない知りもしなかった社長が謝ったところで、その社員が改心することはない。
「体罰」と「暴力」、この違いも「微分評価」すれば、大きな違いがあることが解る。
しかしながら、中身を見ないで結果だけ「立たせた」「殴った」「怒った」だけを見れば、「体罰」も「暴力」も違いが見えない。
「体罰」には愛があり、「暴力」には憎しみしかないという違いもわからない。
この意味では、我が国の社会には、昭和の時代までは「愛」があったが、平成の時代になってから「愛」がなくなったと言えるかもしれない。その代わりに「憎しみ」だけになった。
それもそのはず、戦後の日本社会のトップに初めて「朝鮮系」が登場するようになったからだ。
言い換えれば、「恨の民族」「憎しみの民族」がつくようになったからだ。
首相や国会議員レベルまで、経団連や大企業のレベルまで「恨の民族」がついている。
だから、日本社会のすべての意味が正反対に認識されるようになったわけだ。
この後遺症は永遠に残るだろう。
はたしてこの悪い傾向を如何にしたら取り除けるのだろうか?
たぶん無理ちゃうか?不可能。
それが無理なら、取り除く必要はない。我々日本人が日本人の伝統や良さを取り戻せば良いわけだ。
これからが本当の戦いになる。いずれ我が国も内戦を覚悟しなければならない時期も来るだろう。
キリスト「汝の敵を愛せよ」
保江邦夫「愛魂をかけろ」
井口和基「体罰じゃ」
やはり「愛」がすべてなのかもしれないなあ。
長くなってすまん。お疲れ様。