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【スピリチュアル】保江先生の新著紹介と我が家の「ファミリービジネス」の思い出

みなさん、こんにちは。

さて、13日の金曜日、私の大好きな日だが、最近また保江先生の本が献本されてきたので、一応それもメモしておこう。

ところで、私は献本されてきたものをすべてブログにメモするというわけではないので、それをここにお断りしておこう。あくまで俺個人の独断と偏見のもとにメモするわけだ。


以下のものである。




さて、縄文ゲートの方を先に読み始めたところだ。

が、これは、日本人は「縄文人」の子孫であり、その「縄文人」はレムリア大陸の子孫。さらにそのレムリアはシリウスの子孫であるが、一方、西洋人は、アトランティス大陸の子孫であり、そのアトランティスは火星と木星の間にあったルシファー(破壊されて小惑星帯になった)からの子孫であるということを保江先生が初めて公表した意見である。

どうやら保江邦夫先生は、過去生として、

保江←安倍の陰陽師←アラバハギ←縄文←エジプト←レムリア←シリウス←アンドロメダ星雲

の記憶が今蘇ってきているというらしい。


シリウスから地球へ来るときは、UFO船団の母船のアシュター司令官。部下に矢作先生(とマサ先生)もいたんだとか。

レムリアでは、女王の神官として女王に使えた。その女王の生まれ代わりがドクタードルフィンこと松久先生。

エジプトでは、神官として古代エジプトの秘技、ハトホルの秘技を司った。

そして日本の縄文では、宮司として伯家神道の祖となったアラバハギの一族として古神道を司った。


驚き、桃の木、山椒の木。


したがって、その記憶を基にして、日本人にはだれにも縄文のルーツが残るから、その「縄文ゲート」を開けば必ず開運するというような話である。


一方、未だ読んではいないが、「からだという神様」の方は、先日






私がここでメモしたいのは次のようなことである。

まず結論から言うと、

我が国のトップの人たちは、自分たちが一般人に施す医療を自分たちは信じていない、

ということだ。

つまり、日本国内の富裕層、大学人のA層、インテリ層、エスタブリッシュメント層などこういった上層部にいる人達、いわゆる「上級国民」と最近では貧民層から呼ばれるようになった人たちは、彼らが行う専門職の医療機関をまったく信用していない、ということなのである。

この事実をまずは上の本達を読んで知って学んでほしいということである。


とメモしたように、これをもっと具体的に説明した感じの本のようだ。

要するに、病気は霊的なものであり、単に肉体の病気ではないということを明らかにしたいようだ。



ところで、最近、元農水省の事務次官だった男性が、父親として自分の息子を殺害するという事件が起こった。息子はいわゆる「引きこもり」になったのだが、父と息子の関係は最悪で、そのせいで娘もおかしくなり悲嘆して自殺。これまたいわゆる「一家崩壊」となった。

1980年代のバブル全盛のころちょっと問題という意味で流行った「積木くずし」のような家族であった。

実は、こういう問題は、霊的問題が絡んでいるらしいのだ。

例えば、過去生において、父の過去生と息子の過去生が反目していた、例えば、戦争した民族同士由来だったとか、あるいは、過去生で父の前世の人が息子の前世の人を殺していて、いつか息子の前世が父に復讐をしたいと思っていたとか、そういう魂や霊の怨念が渦巻くというような場合である。

怨念を持つとその人間は呪縛霊になり、何度も地球生としてこの地球を離れることができない。高尚な惑星系に生まれ変わることができない。

こういう場合、その人は途中から全くの別人に変わるらしい。つまり、魂を悪魔に乗っ取られるのだ。

こういう現象は西洋でもしばしばあり、西洋ではいわゆる「悪魔憑き」と知られる。

実は、それをエクソシストが除霊するというのである。除霊すると、綺麗さっぱり本来の自分を取り戻し、万事めでたしとなる。

我が国では、江戸時代までそういう霊的治療が行なわれたが、明治政府がすべて禁止した。

このことからも明治政府は、列強国の影の支配者であるロスチャイルド家の思惑に見事にハマったと言えるだろう。

ゆえに、明治政府は大英帝国の傀儡政権だった。これはまず100%間違いない。

一方、戦後は米国の傀儡政権。つまり、米ロックフェラーの傀儡政権になっただけ。


さて、そんなふうに霊的問題が心の病や身体の病と結びつく。がんや様々の病気、こういったものも実は物質である肉体とその身体に重なる魂の部分、このアンバランスにより病気が生まれる。

だから、それを治せば、病気が自然治癒する。あるいは、一瞬で消える。


とまあ、(い)の本はそういうことを論じているわけだ。


この著者3人のうち、保江邦夫先生と矢作直樹先生のことは本やその他で知っていたが、迫恭一郎さんをまったく知らなかった。

アルカワールドというダイヤモンドの会社らしい。

経歴を読むと、何故か懐かしい事が書かれてあった。

実家が宝石会社でそれを継いで、我が国の宝石業界に愛想が尽きて、自分でアルカダイヤモンドを作り出す。そして大成功。



の著者。




実は我が家も甲府の宝石商だった。

というより、宝石加工業だった。井口製作所。創業者井口実。

私の父だ。

昇仙峡に最初に宝石売店を作り大型バスを呼び込み、
昇仙峡に最初に「宝石博物館」を作り、
初めて「宝石企業団地」を作って公害対策を行った。

業界代表として山梨県立宝石学校を作り、
甲府バイパス沿いにレストラン・ダイヤモンドを作った。

(これらはすべて他人に譲り、その後経営が悪くなり、いまはすべて消滅している。)


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(これには明らかに1970年の大阪万博で我々がみたフラー建築のイメージが重なる。
隣のビルが販売所。いま山梨の宝石業界を独占した英雅堂が入るもの。
英雅堂も父の敵ではなかった。)















私は山梨の名門の宝石加工業者の長男として生まれたのだった。(もっと正確に言えば、私は山梨の名門の宝石加工業者に次男として生まれた父の長男として生まれたのだった。)

最初は4畳半1間の家で生まれたが、高度経済成長と復興景気で我が家はどんどん大きくなっていった。小6の1年では高畑町の普通の民家から、青葉町の大きな鉄筋2階建て、総部屋数20あり、一階にダンスホールのある大きな家に住むことになった。

だから、中学高校と行く先々で、同級生たちから「ぼんぼん」とか「おぼっちゃん」と呼ばれていた。

数年前の中学校の同窓会でもやはり同級生からそう呼ばれる始末だった。

そんなわけで、私は物心ついた頃から、家(住宅)に対する執着心がまったく生まれなかった。自分の家より大きな家に住むやつに出会ったことがなかったからだ。

アメリカへ留学した時もほとんどが木造建築で何も驚くことがなかった。せいぜい中世か昔の開拓時代の家だなという程度だった。

そんな私が大学生になった頃、千葉県の野田市に住んでいたのだが、そこへ父親が東京に出張の際にスーツケース1つもって良いアルバイトの仕方を教えに来た。

スーツケースを開けると、なんとその中は全部ダイヤモンドだった。いま思えばいくらだったのだろうか?

「これを貸すから、これでダイヤモンド鑑定士の資格を取れ」
「ダイヤモンドの鑑定士の資格をとれば、いつでもどこへ行っても金に不自由はしないぞ」

父がこういったのだ。

しかし、当時サッカーをやめる決心をして物理学の博士になるんだと決心を固めて、プロレベルの才能を捨ててまでして物理学者になろうとしているんだから、ここで二足のわらじを履いたら物理もサッカーもだめになってしまうと恐れた俺、しかも社会に無知だった俺には父のその言葉の意義を理解できなかったし、理解しようとする余裕はなかった。

だから、「鑑定士にはならない」とそっけなく断ったのだった。


しかしながら、それから40年。

たぶん、父のほうが正しかった。

もしその時仮にもダイヤモンド鑑定士になっていれば、物理をやりながらも、適当に富裕層のおばさまたちが買いたがるダイヤモンドの真偽の鑑定すれば、それで十分に食っていけただろう。

医師になれば食いっぱぐれなく物理の研究ができる。これを証明したのがヘルムホルツ大先生だ。

同じく、ダイヤモンド鑑定士になれば、食いっぱぐれなく、世界のどこでも金に困らず物理の研究ができただろう。


なぜなら、だれでもダイヤモンド鑑定士になれるわけでないからだ。1個買うだけでも大変なのに、何百個、何千個の鑑定経験が必要なのだ。それなりの息子でなければ不可能だ。

私はそういうチャンスをチャンスと思わずに逸したのである。


では、なぜ私の家の会社が今はないのか?


というと、直接の原因は、いまの父の病気の元になった、真夏に群馬に出張中に脳梗塞で倒れたことだった。いまでいえば、長時間のドライブ中のエコノミー症候群。脱水症状から来た脳梗塞である。

すぐ発見し現地の病院へ行って処置が比較的早くすんだことなどから言語疾患や半身不随にならずにすんだが、1年間はほぼ仕事ができず、リハビリ状態だった。

この間母親では会社が切り盛りできず、会社が傾いた。30人ほどいただろう社員はどんどん転職を促した。

実はこの時ちょうど私は大阪大学の大学院に進学中だった。

後数年で物理学博士になるという段階だ。ここで絶対中途半端に家を手伝うことができなかった。

そこの指導教官の中村教授とは折が合わず、へそを曲げられてしまったので、結局、博士号が取れずに就職になった。幸いにしてバブル時代の勢いで日本の企業は余裕があったから、そんな俺でも企業へ就職できたわけだ。

私が企業へ就職した頃、すでに我が家、井口製作所は廃業し、それまでの家を全部売り、父の居は老後へ向けて、石和に移っていた。

ところが、その会社を半年で止め、今度はアメリカのユタ大へ留学することにしたのだ。物理学博士への一縷の望みをかけての渡米だった。

その渡米の前に石和へ移った実家にしばらく住んだ。

ここでそれまでに1000冊ほど専門書を溜め込んでいたが、その一部の800冊ほどを母校の甲府南高校へ寄贈した。

まあ、その頃はアメリカを知らず、ユタで死ぬ場合も考慮してのことだった。


はたしてこうして我が人生、我が青春時代を振り返ってみると、なぜ保江邦夫が成功し、なぜ迫恭一郎が成功したか?

その理由がおぼろげながら分かってくる思いだ。


当時、若かりし頃の私はこう考えていた。というより、そういうふうに考えるようにしていた。

「一人の偉大な物理学者は宝石商より価値が高い。
だから、自分が実家の宝石加工業を潰したとしても、
自分が理論物理学者になる方が価値が高い」

と。こんなふうに考えていたわけだ。まあ、おごり高ぶった考え方だった。

というより、当時の俺にはそういうふうにしか考えることができなかったのだな。

つまり、私は、自分が物理学者になるに当たり、実家の事業が「潰れたとしても仕方ない」「潰しても良い」と私の潜在意識の中で思っていたわけだ。これがこの世界に作用して、実際にそのとおりになってしまった、というわけだ。


はたしてこれが正しかったか?


私の場合は、ある意味で「負の連鎖」が続いていった。

一方、保江先生や迫氏の場合は、「親も実家もなんとかしたい」「なんとかせにゃならなん」と宇宙に世界に念じていたわけだ。

その結果、すべてが幸運に見舞われていった。

この差だろうということになる。

仮に、私がそのように考えず、
自分の家の宝石加工業の繁栄も、自分の物理学者の夢も、いずれも実現する
と願っていたらどうだったろうか?

長い年月のうちでこれも実現しただろう。


今思えば、他にもっと違ったやりようがあったかもしれない。

たとえば、ダイヤモンド鑑定士になっておくとか、時々実家へ帰って協力するとか、他にやりようがあったはずだ。


しかし、当時の俺はそういうことはまったく思いつかなかった。

それほどサッカーや宝石商の世界と国立大の物理の世界とは差があったのである。

いまではさほど差はないかもしれないが、当時は全くの畑違い。我が家には学者は皆無。大卒も皆無だった。

すべてが俺が初めてだったから、あらゆることが新しい経験だった。

とにかくそれを吸収することしかできなかったわけだ。


この経験から、私は自分の息子たちに物理学者を目指せとは言わなかった。むしろ、科学者にならなくても良いという道を勧めたのだ。

というのは、学者の世界は芸能界よりも、親の七光りの世界だからだ。血筋がすべてなのだ。

その意味では、宝石商や宝石加工業も同じこと。

とにかく、親父が大学教授とそうでない場合には確実に職は親父が大学教授の方へ行く。欧米では、それがユダヤ人に変わるだけ。


とにかく今の世界は腐りきっている。

だから、息子たちには自分の力だけでやれる範囲で良いよというのが私の教えだった。

人間最後の最後は自分の力だけの勝負になる。自分でできること、それで生きよ。


だから、いま子どもたちはそれぞれの世界で苦労しながらも楽しく元気に活躍している。


官僚の息子だから、麻布や駒場へ行って東大法学部に入れとか、そういうことを強制すれば、その子は自分の力だけでできない。もしそれができればそれでいいが、そうならない場合は、心を病む。



世の中で成功している人たちは、結局最後は自分でやって成功したのだ。自分の頭で考えたこと、これで成功する。あとは、運を天に任せる。


別に成功、大成功する必要はない。普通に健康的に生活できればそれで良いのである。


その仕方はさまざまだろう。だれにも特定できない。


それが人生だろう。


かつて私がお坊ちゃんだった頃、毎冬信州のスキー場でスキーをしに行った。二回ほど乗鞍岳のスキー場のオーストリースキー教室に入った事がある。

1週間の合宿である。最初は基本スキーから始まり、最後はボーゲン。上達が早ければウェーデルンまで進む。そして、最後の最後は実践練習。

なんと乗鞍のてっぺん付近までみなでスキーを担いで一列になり新雪を登る。そして、その新雪の中を各自のレベルで滑り降りるというものだった。

新雪には木の先が見える。だから、その下に眠る木や切り株にぶつかれば事故だ。だから、それを巧妙に避けながら滑る。

角度40度の新雪だ。まずコーチが手本として最初に出発。しかし、そのコーチも切り株にはねられて豪快に転んだ。生徒の我々がそれに続いた。大半が転ぶ。

私はボーゲンで一気に豪快に滑り降りた。転ばなかった。しかし、「ウォー、ウォー」と自然と大声が出た。豪快に滑るというよりは、豪快な声で滑った。


この滑走の前の一番最初に言われる言葉があった。片方のスキーを前に立てて、たしかスティックを持つ両手で雪を叩きながら、

「シーハイル、シーハイル、シーハイル」

そしてコーチが言う。

「決して人のシュプールの後をつかないように。自分だけのシュプールを描け」
「人生もそれと同じだ」



どんな人生であれ、ひとぞれぞれ決して同じものはない。


自分の人生を楽しみなさい。


それで良いのである。








弥栄!






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by kikidoblog3 | 2019-12-13 11:26 | 保江邦夫・素領域・愛魂

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