すんません、Yong−Shi Wu教授、ク―カーシュ教授、プライス教授、etc.
もう未練はない。
しかし、昔自分としてはその当時命がけで学んでいた、いや、学ばされていた当時の講義ノートを捨てるというのは、ある意味自分の過去生を失ったかのような思いがするらしい。
こういう昔の講義ノートもここ最近はまったく読んでいないで押入れの中に積ん読だったわけだから、いつ捨てても全く問題ないはずのものなのだ。
しかし、いざ引っ張り出して整理し紐でくくり廃棄準備をし始めると、その都度、それぞれの講義時の思い出が蘇る。
ウー先生が毎週講義の最初に10ページほどの手書きのプリントと1週間分の宿題を配ってくれ、90分。口角に泡を吹かせながら熱の入った講義をしてくれたなあ、と昨日のことのようにその場面が現れる。
実に不思議だ。
単位を取得すれば終わり、あるいは、講義には出たけど、単位をとらずに終わったものとか、さまざまだ。
先生それぞれに個性があり、専門分野がある。
そういう経験が蘇るわけだ。
さて、今回これほど捨てたように見えても、まだまだこれと同じくらい残っているのである。つまり、少なくともあと2,3回は断捨離が必要だ。その後、ここ阿南に来てから集めたものもまだ多く残るからだ。
断捨離とは、私にとって、過去を振り返る時間でもある。
あの時、俺は何を学ぼうとしていたのか?
あの時、俺はだれに教えてもらったのか?
あの時、俺はどれほど目を輝かせて勉強していたか?
あの時、俺はどんなに意気揚々とした質問をしていたか?血気盛んだったか?
そんなことが蘇る。
まあ、こんな気持は理論物理学者しか理解できないのかも知れない。
が、我々知識の世界で生きる人間にとり、講義ノートは宝である。発想の命である。
だから、講義ノートは英語ではレクチャーノートと呼ばれるには違いないが、ノートの上に単に文字が書かれた紙の集まりではないのだ。
遠い昔、この本の余白にはこれ以上書き込めないとか、このノートの余白には自分の証明は入らない、だから端折るとか、そんなふうな中途半端な証明が、後々生き残って将来の数学を書き変えた、というような話があったと思う。
あるいは、昨夜ノーベル化学賞を受賞された吉野彰博士の最初のリチウムイオン電池はノートの上のメモ書きから始まったとか、そういう話もある。
そこまで偉い人の話ではなく私のレベルの学者にとっても、1つ100円のA4ノートの上の文字であったとしてもそれは計り知れない意味を持つわけだ。
とまあ、そんなわけで、断捨離のときはいつもなかなか踏ん切りがつかないのである。
断捨離の度に青春時代に受けた講義を思い出す井口和基