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【真実】鍋島藩の真実:黒船電流丸、アームストロング砲、電信網を持ったキリスト教プロテスタントのお金持ちだった!?



みなさん、こんにちは。

さて今日はこの話からメモしておこう。

先日の保江先生のMuTubeの講演会



の中で出た話。佐賀藩の話。

田布施システム すり替え説の真相 秘密喫茶 居皆亭(いるみなてい)vol.31 ~ 保江邦夫 × 三上丈晴 ~ 5/7




この中で、

1.佐賀藩には有線電信があった。
2.佐賀藩にはアームストロング砲があった。
3.佐賀藩には黒船のドックがあった。



おそらく大半の人はにわかには信じられないだろう。これが「にわか」の意味である。

今回はこの「裏付け」を調べてみよう。


保江先生は「嘘は言わない」。私同様に自分が納得しない限り物事を信じない理論物理学者なので、たとえどんなに信じられない話に聞こえたとしても、それにきちんとした根拠がない限り信じないのである。だから、人に話す場合には、しっかりした話しか話さないのだ。むちろん、怪しい話の場合はちゃんと「怪しい話だ」と区別して話す。


(あ)さて、第一の佐賀藩には海底ケーブルを利用した電信技術があったかどうか?

これについては、このサイトがあった。



江戸時代末期、佐賀藩主の鍋島直正は、西洋近代化の技術を取り入れようと嘉永5(1852)年、領内の多布施に精煉方を開設した。近代技術の研究機関であり、藩内外を問わず優秀な研究家、技術者を集めたのであった。

その中に、久留米出身の田中近江(久重)、京都の理化学者の中村奇輔、但馬出身の蘭学者、石黒寛次らがいた。藩からは佐野栄左衛門(常民)が精煉方主任の役を仰せ付かった。 

精煉方では、蒸気機関、反射炉、大砲鋳造、電信などを研究した。この内、電信機は安政4(1857)年6月頃までに製造に成功した(【注】明治維新は1860年)。ちなみに「からくり儀右衛門」とも呼ばれた田中近江の事業は、後の東京芝浦製作所(現東芝)へと継承される。 

鍋島直正は開発した電信機を、薩摩藩主の島津斉彬に贈呈することを考えた。近侍長の千住大之進を正使に、佐野栄左衛門、中村奇輔を隋員として、一行を遣わした。直正と斉彬は母親が姉妹、つまり従兄弟であったのだ。 

明治に入ると、電信と郵便が並行して発達した。 

維新から間もない明治4年12月、佐賀城下の長崎街道、東拠点構口と西拠点八戸の中間地点である白山町土橋脇に、佐賀郵便取扱所(郵便局)が開設された。6年には取扱所に電信局が併設された。 

土橋は当時、佐賀城外堀(十間堀川)に架かるランドマークであった。土橋を渡れば江戸期からの商人の町、唐人町と寺町に入るのである。 

筆者は平成26年にこの十間堀川の調査をし、付近に小さいながらも川港の痕跡を見つけ、発表した。この地区こそが、城下町・佐賀の北部における物流拠点と位置付けた。この点からも、郵便取扱所を設ける上で、まだ鉄道の敷設されていない当時としては適地と考えられる。 

もう一つ、立地の理由があった。それは情報流通の拠点ということだ。 

江戸期、元文5(1740)年の佐賀藩地図「佐賀城廻之絵図」をみると、八幡神社付近、白山町西端に「使者屋」と表記がある。使者屋とは一般旅人ではなく、公儀(幕府)使者並びに飛脚が宿泊する指定宿である。藩外からの重要情報は、この地を入り口として佐賀城内に入ったのだった。 

郵便取扱所は当初、使者屋の隣接地に、数年後には使者屋跡そのものに移転されたのだった。今も同じ場所に佐賀白山郵便局がある。 

ここで重要なことを確認する。 

明治政府の文明開化施策である近代通信網についてである。明治6年、東京から西へ伸びる通信網の幹線が、福岡から佐賀に入り、長崎に至った。 

一方、久留米から南の幹線は当時熊本へは接続していなかった。郵便は道路をとって届くが、電信線は繋がっていなかったのである。 

この東京・長崎間の電信線敷設に貢献したのが旧佐賀藩士、石丸安世であった。石丸は明治3年、初代電信頭となり、電信インフラの整備に尽力した。 

電線架設に必要な碍子(がいし)の国産化を、有田深川栄左衛門に開発を委ねた。 

こうした功績から「電信の石丸安世

日本電信の祖 石丸安世
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と呼ばれるようになった。石丸だけではない。旧佐賀藩士では、逓信省初代電信局長を務めた「電話の石井忠亮」もいる。 

石丸と石井は、「郵便の前島密」「鉄道の井上勝」とともに後に「逓信四天王」と称された。幕末から明治への電信事業の系譜をみると、佐賀藩はまさに、近代情報産業の草分けであった。


このことから解るように、佐賀藩=鍋島藩は蘭学を通じて西洋の電信革命、電磁気革命、蒸気機関革命に通じていたことはあきらかだ。

また、


によれば、1840年に発明された電信技術

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の電信網の実用化については、

1844年→ワシントンーボルティモア間
1851年→英仏海峡
1866年→大西洋横断(ケルビン卿による)
1868年→明治維新
1870年→香港ー上海間(大東電信、大北電信)
1871年→香港ー上海間(大北電信)
     →シンガポールー香港間(大東電信)
     →上海ー長崎ーウラジオストック間(大北電信)
1872年→インドーオーストラリア間


要するに、1990年代のインターネット網のように、1870年代は電信網の時代だった。19世紀には世界網ができるのに30年近くかかったが、20世紀にはインターネット網ができるまで数年〜10年しかかからなかった。

ところで、明治維新は1868年だから、鍋島藩に公式に上海ー長崎間の電信がつながるまではまだ江戸時代末期であり、そのときにはまだ電信はなかったことになる。

しかしながら、非公式に実験段階としてすでに電信を持っていた可能性はある。何事も公式に技術を提供できるようになるずっと前に同じ技術を持つのが普通だからである。

私が1991年から1992年に所属した富士通は、インターネットが公式に始まった1996年より10年ほど近く前の1980年代後半には独自の光ファイバーを使った独自のインターネットを持って日本の本社と米国の支社とで通信していたのである。日本の大学も電話線を使ったメールは公式に社会で使われだすずっと前にはメールを使っていた。

だから、鍋島藩が電信を江戸時代にすでに持っていたことはまず間違いないだろう。


(い)佐賀藩にはアームストロング砲があったかどうか?

はたして鍋島藩にアームストロング砲
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があったかどうか?これを調べよう。

これについては、武田邦彦博士のこれがあった。




佐賀藩主・鍋島直正はペリーの浦賀来航の3年前には、すでに領内に
日本最初の反射炉を建設し鋼の製造を重ね、自らの藩でアームストロング砲を鋳造した。 
この佐賀藩の「アームストロング砲鋳造」は佐賀藩の反射炉で製造した鉄を使った砲で、19世紀の半ばにアジアの一国、それも佐賀藩というさして大きく無い地方の政府が独力で製造したことに「ものづくり」に特別の関心を寄せる日本社会があったと考えられる。 

実は、この時期、後の日本が歴史を刻んできた驚くべきこと・・・日本海海戦、プリンスオブウェールズの撃沈、ホンダのマン島レースの制覇・・・の萌芽が見られた時期でもあった。それが、このシリーズで触れる「蒸気機関の製作」、「スームビング号の江戸回航」、そして佐賀藩の「アームストロング砲」だった


というわけで、1853年のペリーの来訪3年前1850年には、すでにメイドイン鍋島のアームストロング砲を持っていたのである。



(う)佐賀藩には黒船のドックがあったかどうか?

最後の佐賀藩にあったという黒船用のドック。これについてはこれがあった。



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船屋地区
海軍所として整備される前は、佐賀藩が所有していた和船を管理していました。
海軍所のはじまりである「御船手稽古所(おふなてけいこしょ)」が置かれた場所です。
稽古場地区
長崎海軍伝習所で学んだ伝習生たちが教官となって、藩士らに航海術や測量術、造船術などの教育が行われました。
修覆場地区
洋式船の修理に必要な部品の補修・製造を行う製作場や修船の際に船を引き入れるためのドックがつくられました。


この洋式船が保江先生の言った「黒船」のことである。

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佐賀藩はなぜこのようなドックを作ったの?

当時佐賀藩が所有していた和船は全長20m程度でしたが、幕末にオランダから輸入した蒸気軍艦「電流丸」は全長45mもありました。その大きさは、とても船屋地区では管理や修理ができるものではありませんでした。そこで、南端におかれた「修覆場地区」に、このような大型の洋式船を修理するためのドックをつくったのです。

お金持ちの佐賀藩は、幕末にオランダから蒸気船「電流丸

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を輸入していたというわけだ。この他に甲子丸もあった。

甲子丸
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というわけで、佐賀藩がリッチで、当時最先端の蒸気船の軍艦を持ち、そのためのドックも持ち、電信で上海と通信し、アームストロング砲を自作していたというわけである。

これが幕末前のことである。

もっとも江戸時代を作った徳川家康が、その江戸時代を作るはるかに前にユダヤ系オランダ人の按針さんことウィリアム・アダムスを家臣にしていた。そして、江戸時代を作ってからずっと長崎だけを開いて西洋と交流していたわけだ。だから、佐賀藩においては、少なくとも300年以上の間西洋文明とのつながりを持っていた。同様に、その時にガイド役として上海人の中国人が同伴していたわけだ。

だから、佐賀の鍋島藩には300年以上の西洋の情報が入っていたわけである。

ところで、なぜ鍋島家は京都の近くの滋賀に住まわれたか?

また、浄土真宗の本願寺派がどうして法衣を着ず洋服なのか?あるいはキリスト教の神父様のような着物を着ているのか?なぜ真ん中に如来蔵があるのか?

実は、浄土真宗本願寺派は仏教に模したキリスト教なのである。あるいは原始キリスト教か景教。

阿弥陀如来像=ブッダ=イエスともいえるし、マリア様とも言えるわけだ。

浄土真宗は親鸞が作ったが、その後の浄土真宗の本願寺派は、プロテスタントに近いと考えられるだろう。故に、仏教の衣をまとったキリスト教なのである。

だから、築地本願寺にはモスクのような建物がある。本願寺=教会なのである。

かつて織田信長の時代にやってきたイエズス会は南蛮寺を作った。これがカソリック教会であり、本願寺がプロテスタント教会なのである。

ということで、鍋島家はおそらくプロテスタントだろうということになる。


いずれその真実が解る時が来るに違いない。



弥栄!








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by kikidoblog3 | 2019-10-31 17:38 | 保江邦夫・素領域・愛魂

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